「現実認知なるものも、一度脳内で再構成されているVRと違わない代物じゃないか?」って話
更に言えば、
ジェットコースター『興奮』を伴うエピソード記憶の場合、BGMがついていたり脚色されていたり劇画調に編集されていることになる。
(どういうことかって、地上波のキモチワルイ報道などの演出を違和感なく視聴しているケースが存在するだけでなく、普通に映画を観る時にBGMに違和感あって観てられないなんて話は無い《普通に映画音楽賞なんてのあるんだから》)
”だから”絵日記なるコンテンツが昔成立したワケだ。
他人の脳にダイブすることは誰にもできないが、
たとえば「ひとつの事象がどう見えたのか」って話を考える時、
当事者全員の見え方ってのも違うだろうし、
それがエピソードとならず、淡々とした”忘れてもいい記憶”の人の場合だとひと際見え方が違っていることになる。
(JAZZファンじゃない人が、マイルス聴いても特別何も残らないし印象も語れない)
■「記憶を作文だとは言わないけれど」
たとえばさ、左翼界隈にある「アベガー」ってあるじゃない。
(左翼の目には安倍首相がどう見えていたのだろうか的に)
先入観や余談がある時、視覚情報すら正確性が疑われるのであって(いきなり怒り出すことを周囲が不安げに見てる対象者がいるとしてさ、この人物は別に怒っていやしないのに、周囲が「怒ってるんでしょ」とか見えたりすることもあるでしょ《星野監督伝説とかさ》)、
それはさ、結果として「体験している事象そのものが別のことになることもある」ってことだよね、
●さて、心理学ブログだからさ、
ここはエディプスコンプレックスに関連させて考えてみようか。
「ある意味エディプスは(子供事情の)錯覚である」って話を過去にもしてきた。
たとえば、
人類ヒト科が本能壊れたか?ってレベルに異常に発育が遅くなったり、
未熟児かって出産に至った結果(サルの本能では歩ける設定なので)原始歩行してみるけど、歩けないことを知りショックを受けるように、
「ダメじゃんこのままでは死ぬ」って状況で、(目もよく見えていないので)後に神のイメージに錯覚するような親と対面することになる。
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これってさ、さっきの「いきなり怒り出すことを周囲が不安げに見てる対象者が、別に怒っていやしないのに「怒ってるんでしょ」とか見えたりすることもある」って話そのまんまだと思うんだよね。
フロイトはそんな話していないから、これは俺の私見なんだが、
「ほとんどのエディプス・コンプレックスは幼児事情の錯覚」だと考えてる。
(だから、特別心理学の知見が無くても通常営業思春期『反抗期』であらかたネタバレ可能なのだと《自分自身が子供では無く大人になったというだけの転換で『抗う(あらがう)』ことができる》→本質的には”幼児期錯覚のネタバレ”だからね)
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タグ:強迫心理