「フリーJAZZのジレンマ」がそれで(やり過ぎたコンテンポラリーダンスのジレンマも同じ)
法則性無くバラバラに演奏すると(文章で言えば脈絡なくギャーとかオーとか擬態語擬音語だらけで)文章として成立しないように「何言ってんのかわからないし、言えば演奏者も何やってんのかわからなくなる」って話。
ある意味60年代からしぶとく続いていたJAZZを音楽として終わらせたのじゃないかとすら思ってます(前衛としていきついた先が絶望だったみたいな)。
※フュージョンを試行するマイルスのがやっぱ前衛だったのかな、、
■「脈絡なくギャーとかオーとか擬態語擬音語だらけで文章として成立しないものが、何かの表現だろうか」→はたまた発信元は意味わかっていても(僕だけの新言語とか編み出して)何言ってるのかわからない場合(『民主主義』はバトルプルーフ」の原稿で書いたけさ)それを”問う”ことができない。
独裁者による「王様は素っ裸」みたいな状態に放置されてから「あれどうしよ」みたいな事になる。
なんつかさ、
プロ野球で言えば、究極の打撃を求めてバッターボックスでフラフラダンスのようにクルクル回ってみたが、一球もかすらないパフォーマンス見せられてもだな、
「どうしようもないだろww」
↓
時に俺流神主打法、時に長さんの野生打法、ノムさんの読心打法、衣さんの無茶ぶりフルスイング。門田さんの腸ねん転打法、イチローの振り子打法、古田の物真似打法、掛布の反動つけてレフト打法、青木のバッターボックス出てるから打法、ギータの振り過ぎ打法、吉田君のフルスイング、山川のアッパー打法、おかわり君のレベル打法、ナベ直のデッドボール打法、若松さんのゆらゆら打法、杉浦の一直線打法、真弓の渋いインコース打法、福本さんのスリコギ打法、巨人移籍後丸のドルジ打法、そんな現代巨人を代表した阿部慎之助のウナギイヌ打法、清原君の恫喝打法、阪神佐藤テルのインコース高め意地でも凡打打法、古くは近鉄梨田コンニャク打法、ヤク村上の動じない打法、山田のトリプルスリー打法、黄金時代センター飯田のはご板打法、土橋のテーピング眼鏡打法、達川のデッドボールは演技で打法、阪急ブーマーの水平にしか振れない打法、カブレラのドーピング打法、近鉄ローズの斜め打法、ブライアントの遠心力打法、、、、
全員違う個性の打法なんだけどさ、目指している先は”同じ”で、
自分と違う打法の人が「”あ”にやってんだか」互いに理解している。
(で、古田を例外に他人の真似はやろうと思わない《古田は落合のバッターボックス入り方、タイムの取り方まで模倣して首位打者を取った珍しい選手》)
↑
何人も群れをなして全く同じフォームで練習する風景とか無いだろ?
(それは『共同幻想』バリバリの体育の時間や、熱心な部活の様子だよね)
※プロスポーツ選手の取り組みは(体育会文化なままの選手も多いので=人格と同じでは無いが)その在り方・取り組み方は『単独者』なワケ→逆に言えば『単独者』とはプロフェッショナルのことかもしれない
スポーツはいんだわ、「それで打てるのか」って常に結果を”問う”ことができる。
●ここにも明示されていると思うんだよね(独裁者のジレンマで『民主主義』により”問うことで”バトルプルーフされないからって書いたじゃんさ)『民主主義』の建付けってのは(組織票や談合や人に相談せず)プライバシーを保障された上で個人が自分の考えで投票することで成立するワケ(同調圧力を容認する『共同幻想』社会は”これに仇名す全体主義”なんだわ)、つまり『民主主義』は『単独者』社会を前提にしてんの。
であるから芸術などの実存性も「どれだけ多くの『単独者』にそれを問えたか」にかかってくる。
広告宣伝会社とメディアが捏造する”ヒット曲”には、何らの実存も無いのだよ(存在そのものが全体主義を前提にしたプロパガンダになってしまう)。
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