簡単な構図だけれど、
『宗教』とは古代の”学問の始まり”であり、
近代以降のアカデミズムは自由に世俗化するために宗教から離れたが、その実像は『宗教』のサブセットに過ぎない。
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はてさてどういう意味か?
(ま、心理学はその答えを持っているつもりですけどねw)
日本の寺子屋だけでなく、そもそも論的に欧米の大学なんてもののルーツは神学校だったりするワケで、封建時代の欧州インテリ階級が憧れたペルシャ文明にしても背景にはゾロアスター含めて宗教的な英知みたいなものであってだな、
古代最強のインテリ階級は宗教者であった。
まじない(シャーマニズム)も含むってことなれば平安時代の陰陽師は言うならば官僚の技官に相当するインテリだったのであり、
翻訳して読解することを禁じているイスラームのコーランにしても(民族で言語がバラバラだとあれだろと→言語で知的水準に格差がうまれる)教育と言うものを前提に置いている。
はてさて、それはともかく
学問として主教を見た場合、それは形而上学ってことになるけれど、
そらあれですよ、科学の世界にしても、
「全部わかりましたから、もう宗教は必要ありません。アカデミズムが学問の王になりました」と、まだ言えてないんですよ。
●思い切り、宗教者から「神はどうなってるの?」問われると、
否定の証明も肯定の証明もまだできていない、
(あくまで概念としては心理学で説明可能だけど、めんどくさくなる話はここでは省略)
「ノーベル賞取ったハーバード大学の教授はローマ法王より偉いのか?」←ここですよここ
アカデミズム陣営はさ、究極そこ到達しないと「問われるテーマへの回答がまだ不十分だ」ってことになるワケさ(神や悪魔ややれ天国だナントカだって話に参加できないからだ)。
●果たして科学の答えが「量子コンピューターによるAIという”神の創造”」により実現するのかわからんけれど(タイムマシンこそが答えだってパターンもあると思う→モーゼやイエスキリストやムハンマドの肉声が聞けるからだ《この場合ネタバレにより宗教を踏破するってことだわね》)、
「そこに山があるから」的に言えばさ、
アカデミズムってものは、比喩的に言えば「神の証明」まで続く
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