ここのとこ、フロイト心理学の”超自我”の話もするようになってきてるけど、
(本来は『共同幻想』論でここ包含しようと思ってはいるんだが)
単純に言えば”超自我”ってのは、幼児期に神格化されている親やそれに類する(昭和以前は長兄とかの場合もあった)保護者とのやりとりで発生する「エピソード記憶」が格納される記憶エリアのことで、中間テストの勉強が記憶される場所と”違い”
「エピソードフラグを解除しないと忘れられない領域」を指し、
主として宗教的戒律や、道徳や、厳しい躾(家訓)など、個人的利益代表である『自意識』より上位の(超越的な)admin権限を持つ領域であるため→”超自我”と呼んでるものです。
「豚肉が食べたい、しかし、、どうしても食べことができない!(by.イスラム教徒)」
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これのこと(極端に言えば”カタカタ震え出すほど食べたくでもできない”みたいな)
●はい、そういうワケで
幼児期に権威者(幼児期ならではのデフォルメで神格化されたり、ヒーローイメージ化されたり、聖母イメージ化されたりするため)との関係で獲得される”極端に目立つ記憶”は(驚いたとか『興奮』伴ったとか)、自動的に「エピソード記憶」として、”超自我”に格納されるので、
・たとえばね
「子供時代に権威者と訪れた地元で有名な観光地などの記憶は?」
ガチ、ノスタルジーのシーンで鮮明に思い出される郷愁の一枚になります
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大人になっても仕事関係で手ひどい失敗などして、『退行化』すると速攻イメージが再現され、
「田舎に帰ろうかな」なんて思ったりするわけ(笑
読者の方はもうわかると思いますが、
「田舎のローカル『共同幻想』保守志向」ってのはこのようなエピソード記憶の獲得と、半ばフラッシュバックするような”仕組み”(ノスタルジー)により構成されることがわかると思う。
∴故に、ガッツリとローカル『共同幻想』に適応した自我は、決して田舎を離れません
(BOROのヒット曲「大阪で生まれた女」)
<<<ちょっと小ネタですが>>>
社会適応の”適応”って何?って、配慮に欠く表現すると、、「洗脳」です。
(本人の間接的同意の元入れ替えるので、正式にはオマージュとか”認識に対する影響”)
自 我 の 一 部 を 社会 に 適応 さ せ る
=「入れ替えるとか、接続させる」って意味ですから、
自我の社会化=個人としての一部を社会的自我という”テンプレート”に置き換える
置き換えるためには、個人としての一部を「上書きする」ことになるので、
=『抑圧』と構造は一緒です
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何も恐ろしい話ではありません、
・ボール遊びをしている少年がいるとします(蹴ろうが持って歩こうが投げようが自由)
・公園でサッカーで大興奮している子供達を見ました
(自分の遊びよりより高い値の興奮を獲得している:快感代謝)
・「僕もそれやりたい」
・「サッカーって言うんだよ、手を使っちゃダメ、それからオフサイドって言ってさ、、、」
(僕のボール遊びは、サッカーに上書きされそのルールを守ることにも同意)
・自由なボール遊びとか忘れ、ルール遵守に道徳的認識すらある→ズルする奴に激しく怒るなど
「サッカーやろうよ!」
(●重要なポイントは、以降僕は「サッカーを知らず、ボールでマヌケなひとり遊びする子供を見つけるとバカにしたり、軽蔑するようにすらなる」ところで、『共同幻想』論や、イジメの論理などにも繋がる話でしょ?)
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これがスポーツという社会的概念への”適応”ね、
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