フォーカスするとか焦点を当てる(同じことだけど、、)
=集中力を発言するじゃん←「これは何だ」ってお題だと思うんだ
松尾芭蕉先生が庭のお池を見て感嘆するのは、庭が凄いから?
いやいや違うだろ、、普通はスルーしちゃうんでしょ。
「よっぽどエンタメ性が無いと」←「これは何だ」
エンタメ性が先なのか、気を取られる(集中力が発動する)のが本体なのか?
=どちらがどうという話では無くて、
それこそ量子論みたいな話なんだと思う
「注意力を持って観察しなかったものは、存在しないも同然なんだと」
(記憶の雑音フォルダにパラパラ漫画程度に劣化した情報がゴミみたいに放り込まれるだけ)
同じ情報でも、「おっここが”面白いんだよ”」←このように自らの知見で”エンタメ性を付与できる個人は”→「全く別ものを視聴したのだよ」
その記憶は”見どころ”部分をデフォルメ強調され劇画調で登録される。
●つまり松尾芭蕉先生の現実がカラフルで凄いものだったのではなくて、
芭蕉先生は素のなんでもない環境の中に”面白いとこ”や”見どころ”を発見できる人なんだわ。
↑
それは外形的事実に依存せず、知見として主体的に発現できる。
(※どんなクソ音楽にも聴きどころがあるの意では【無い】からね、”その端緒”を発見できる人にはスゲー楽しい音楽ってのが別にあるわけ《最後までクソなのはやっぱりクソだからww》)
て こ と は さ
フォーカスするとか焦点を当て”させなければ”、何も存在しなかったことになる、
松尾芭蕉先生に何かこう、不当な圧力をかけてストレスで「それどころじゃない」状態に置いたとする。流石の芭蕉先生も、「同じ庭を見ても、なんにも感じずにスルーするだろう」
↑
これが「抑圧」の図式だよ、
●重要な事は、その都度「これが本音!」って確認されてから→無かったことに押し込む(それじゃ抑圧ではなく我慢だ)のでは”無く”、→「本音など無かったことにする」のが「抑圧」だから。
本来ならそこで起動する筈の感情を無かったことにするワケさ、
この段階で、本音ってものをこの世から消滅させることができる。
(本来ならあった筈の表情や感情を、表現・体感される前段階でごみ箱送りにできる)
→続きを読む