■これ説明しなくてもわかると思うんだけど、
所詮ニンゲンじゃん、ゴリゴリ個性化しても脳のスペック超えるとか無いし、
しかも個性的な出入り先に出没することになるので、
”偶然””ばったり”「ニアリーイコールな人と出くわすワケだ」
「え、マジ、これ(同じように)わかる人?」はい、この瞬間”親友”
(この辺後述するけど、出会うのは必ずしも人である必要は無い「感じのいい店発見《これは店主との接点かもしれないが》」でもいいワケ、その理由は?→そこは後述)
で、おおよそ考えてることわかるので日常的に会う必要もありません(実は既に目的を達成している:ここも後述)。
「お元気で」「じゃまた」に深い意味を持つ。
結局類は類を呼ぶで、「まずその類(たぐい)にならなアカンやろ?」
ゴリゴリに個性化し、単独になることと、そんな奴に出会う確率は等価なので、
(よーく考えてくれ、不特定多数に見られる一般的な行為に身を費やすと?→没個性化が進行し《コモディティ化》『共同幻想』適応社会には都合がいいが、『単独者』にとっては実存証明でもある個性喪失の毒になる。)
『共同幻想』や「歩留まり」に関わることは”個性化実存の遠回りになる”のさ、
ましてや友達探すのが目的では無いので(その可能性を担保してることで十分:いても日常的に会う必要が無いんだからよ)「極論ドッペルゲンガーみたいな奴と出会わない方が勝ちとなる(唯一個性化の獲得:最強の実存証明)」←【何が得らるのか?】
理論的には→生きてるだけで(とりわけ何をするでなしでも)”快感代謝”する。
(『共同幻想』用語で言えば、だいたい「面白くて幸福」みたいな意味になる)
↑
●別に突拍子も無い話では無くて、
誰でも「間違えて洋服表裏逆さとか前後ろ逆に着た事あるでしょ」そういう事件ってさ
まあほとんどのケースで”一週間はエピソード記憶に残る”
(それって”快感代謝”の効率高いってこと、”体験のレア度《珍しい》に比例する”んだわ)
(つまり「滅多にいない奴」が自分の場合、《間違って欲しく無いのは”狙って奇抜な事する”行為の真逆だから》、この世に生きていることがエンタメなんだわ:てかそれは「生物の原則だよね」)
↓
極論、『単独者』論って自然な(ワイルドな)動物的発想だと思う。
(生命の危機が無いなら「羊だって熊のように単独行動するだろ」って発想)
※”同じである”(或いは共通項がある)ことが友人性(会意:組み合わせ)に至る部分は『共同幻想』論と同じ(継続使用が”慣れ”から転じ愛用品になると類似してると思う)。
『共同幻想』社会が権威の号令で以下構成員を(ある意味制度的に)”同じにする”のに対し
『単独者』が、自由放任の中で個性化した結果として偶然”同じかよ”に出会うの差、
”常日頃同じになってちゃってる”前者は常日頃同席しても不自然では無いし都度”同じに調整(だよね、そうだよね)”する必要性があるのに対し、
後者は”そのまんま”どこの構成員でも無いので、日常的に会う習慣は発生しない。
(『単独者』は”合わせたり””確認調整”の必要も無いので=日常的に会う必要性も無い。逆に没個性にならない注意が必要になる《不特定多数と慣れあう関係は『単独者』の死を意味する》=”自分の時間が大事になる”)
そして”ある意味『単独者』でい続けることは簡単”
→「だって全員元から別人じゃん(最初から個性差がある)
●何度も言うけど『単独者』の特徴は”特別何をするでなし”なんで(ご当人にマニアック感というか専門性の高さや深度の自信があればいい)「ぱっと見平凡な奴とかアリアリ」だから。
(やおらニヒルに構えたいけすかない奴みたいなのイメージされると「違うと思うぞ」)
マイペース我が道を行く、その単独行動の行先は「立ち食い蕎麦屋」でもいいワケでww
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タグ:『単独者』