●「鍵は子供ならではの事情が分からない難解さ」だと思う。
過去記事にも随分書いたけれど、
(お叱り覚悟で書くけれど)暴力的で理不尽な親だからといって、子供のメンタルに影響が出るとは”限らない”、しかしその同一人物が場合によると人が変わったようにやさしいとか「そういうのがヤバい」。普段は大人しい親が、(子供にはにわかに事情を理解できない)ある特定事象で激怒するなどもヤバい。
簡単に言えば(そんな親世代も)自分がどうしてそうなのか理解していない場合だって少なくないだろうから、そこを子供世代に理解しろってのも無理な相談だ。
(前述の暴力理不尽親だけなら、子供ながらに「こいつが固有にクソである」と理解できるのでそこで悩むことがないワケ)
さて、そんな「事情の分からない難解さ」がああると(親と安定的な関係を築けない場合、子供は速攻死に直結するので希求の問題になる)「無理でもなんでもどうしてなのかを確定させなければ不安に耐えらえない」→そこで「僕がいけない子だからだ」などの手近なとこで無理でもなんでもそれを説明しようとする(或いは自分を納得させようとする)。
●これが「強迫心理」
「適応強迫」なんてのも、どこにでもよくある(文科省も期待しているし)親が事あるごとに「お友達と仲良くできている?」なんて(心配から良かれと思って)声をかけることが逆効果になり発生することもある。→ビクついた子供が「友達と毎日仲良くできていないと、子供として認めてくれないのではないか?」などを不安に思った場合、(無理でもなんでもどうしてなのか結論を出そうと)「友達と毎日仲良くできないと人間失格だ」などの「強迫心理」を無意識に形成してしまう場合もあり得る。
※勿論、偶然子供が個性派で「どちらか言えば『共同幻想』に対する社会適応に自信が無い場合(その場合は別に慣れあう必要無いのだが)」、自らの漠然とした不安が連想ゲームで上記のような「強迫心理」形成に繋がるなど、
<今回の話は「強迫心理」発生のプロセスでは無く、当時と思春期以降などの違いなので発生時の状況はこの辺まとして>
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この一行で察しのいい人は気が付いたと思うけど、
思春期にも謎が解けない場合(或いはエディプスのハードルでネタバレがタブー視される場合)
『反抗期』をもってしても、ネタバレ崩壊できずに「強迫心理」としてキャリーオーバーされる。
■子供時代などの発生時は「親との関係」や「学校内での関係」など、
言えば”小世界”であると同時に、葛藤や不安の対象も当該人物そのものだったりするので、そこから逸脱することは無いが、
無意識下で過去用例のひとつとなったり、ましてや超自我領域に「エピソード記憶」として保存された場合、現実認知との比較対象として都度呼び出されることになる(フラッシュバックみたいなもの)。
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つまり「強迫心理」の投影が起きる
大人社会の方が世界も広く、自分の活動領域や選択肢も段違いであり、
なににも増して思春期以降だから生殖能力と獲得と、(子供時代の潜伏期と比較して)基礎的「欲求」のレベルが一気に拡大する(求められる快感代謝のゲージが爆上げする)。
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■世界は広がるは(家族から社会へ)、自分の快感代謝のレベルは爆上げするわで、
「強迫心理」の設定と、『自意識』が本来企図する”快感代謝”の動機形成が相克利益相反する社会的局面が表面化することになる。
且つ、この状態はコンプレックスなどの対象者が明快な子供時代と違い、無意識な投影によるのだから、当事者としてはにわかに自分の子供時代の認識が現在の心理に影響を及ぼしていると理解することは難しいし、「強迫心理」の設定も手に取るようにわかるワケじゃないのだから、
「自分がどうしてそういう心理状態になるのか本人にもわからない」
且つ、(特別意識もしていないのに)「強迫心理」がネタバレするような投げかけには条件反射で道徳的に(自分でもどうしてそんなに怒るのかよくわからない場合もある)凄い剣幕で反論してしまったり、第三者が状況を分析整理して説明しないと全体像すら見渡せないことになる。
ブログでよく触れる「反動形成レバレッジ係数」では無く、
子供時代発生時と思春期以降の差は(潜伏期解除と空間の拡大による)
「思春期以降にはターボチャージャーでパフォーマンスが倍になるみたいな違い」があるってことです。
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