「いやあ手ごろなCDプレーヤーが無いなら、余ってるPCをオーディオマシンにすりゃいい。USBから外付けDACを使えば音質も悪くない。」
●あえて狭義展開とは?
「マランツCD34じゃないと意味がないんだってば、CDM-1とTDA-1540の力感あってこそのCDプレーヤーだ。」
<<<上記両者の選択と自我の関係から「あえて狭義展開」とは何なのかを考えてみる>>>
前者はわかりやすくいえば合理主義だから『自意識』マターであることがわかる、
(勿論後者も”再選択保守”としての”あえての選択”な部分もあるけどね)
これに対して後者は”なんらかの投影なり象徴化が認められる”、「CDM-1とTDA-1540」に固有の意味が派生しているからだ。
音の良さだけを求めているのでは無い”合理性を超えた何か別の意味”がある。
どちらが”快感代謝”が容易かと尋ねられれば考えるまでも無く前者となる。
↓
■よくある社会的状況に置き換えれば
「腹いっぱい食えればいんだから、早く帰れる平社員最高」
「最低でも課長以上になって、帰りには”あの店で一杯やる”のが目標なんだ」
前者の方が楽だよねww
つまり簡単に言い換えると
前者
「サブカル・オルタナ広義展開は合理的で楽」
後者
「あえて狭義展開は、何が面白いのかわからないが苦行の道」
<<更にその中身を追及していけば、>>
前者
「インチキCh製のUSBDACもチップがクリエイティブメディアだとか1万以上のDACに使われてるチップのとかもあるんだよ、流石にマニアじゃないのでコンデンサーは交換しないけど」
「そうなんだ、それはちょっと面白い話だな」
後者
「DACもフィリップスに拘ることもないさ、1bit系のが嫌いならバーブランもある」
「そういう問題じゃない、何回言えばわかるのかCDM-1のダイキャストのスイングアームメカがあってのTDA-1540なんであって単純にDACの変換性能の話をしてるんじゃない」
前者は肩の凝らない気ままで楽しい会話になるが、
後者はなにやらめんどくさいことになってきたぞって会話です
前時代の『共同幻想』社会では、「周囲に合わせるだけの人」と「めんどくさい人」ぐらいの比較になっていたので、後者は「拘りの」とか「頑固者」とかで片付けられもしていたと思うんだが、
●素で考えても、後者は苦労が続くことになるし、、
↑
【ハイ、今回の結論はココだよココ】
シューシュポスの神話じゃないけど(はたまたストイシズムとも違うと思うが)、
ド・M的なエンタメが付加されてるのが”本体”なのだと思う。
”それが困難だから”執着できるんです。
ベタな言い方になっちゃうけども、
「無意識に不快感『興奮』を志向している」のだよ。
こんな事言うと、拘りのな人に怒られちゃうと思うけど、
「今時マランツのCD34なんて骨董品が滅多に手に入らないから惹きつけられるネタになるんだわ」
↑
そんなことが?って人には、
→「命を落とすからもしれないから最も難しいアイガー北壁からアプローチすんじゃん」
(類似例としては前人未踏だから人は北極圏を目指したワケで)
事実、トライアスロンなんかやってる人は「ド・Mとしか思えない」
映画の世界でも「とにかく大変なこと」「それは絶対に不可能」などのテーマを背景にするものが少なくない。
→続きを読む
タグ:快感代謝