「ふと、自分がガンになったらどうしよと思ってしまうのですが」←【よくあるケースです】
●わかりやすく言えば『被る(こうむる)』ネタ切れ
(※類似例に「唐突に凄い昔の『被る(こうむる)』事例を再び持ち出す」がある)
勿論、上記現象は全て”無意識”であり、
同時に、自我に「不快『興奮』や、不安『興奮』を煽り、快感代謝しようとする悪癖」が定着していることを意味します。
言いかえれば「強迫心理」にとって(米国『民主党』のように”本当に問題解決されると困る”)暗に「不快『興奮』や、不安『興奮』とは、《人類ヒト科にとって死の恐怖にも等しい》欲求不満を逃れ、快だろうと不快だろうと”快感代謝”を実行する有力な選択肢」であり、
『自意識』がリードする、欲求のサブカル・オルタナ広義展開(ベタで言えば”何か面白いこと思いつく”)に遅れがあると、「やおら仕方がないと、意地でも無理でも不快『興奮』ネタを持ち出そうとする」ものなんです。←論理的にそういう仕組みになってんの、
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昔のTVワイドショーのコンテンツで考えてみてください、
ここんとこ連日報道していたホットなネタが収束してしまい、「ヤバい、何もネタが無い」な時に(実はTV局はそれ用のVTRをいくつか常に準備している)
「何か唐突な特集だとか、昔話の再燃”あれはなんだったのかその後”とか」必死にテンションを繋ごうとするでしょ?
●まったく同じことが脳内で起きていると考えていただいてOKです
「何も放送するものが無い放送事故は、死を意味するほど”あってはならないこと”」
なのです(一種の日常性の崩壊)。
■何も「強迫心理」マターが特別なのではありません、
構造的はほぼ同じ『共同幻想』適応事例の場合も、
(困った時に上映するネタ的に)「あーそういえば、庭の掃除をやっておかないと」などと、実に都合よくやること決まっていたりしますが、こういう”動機形成のストック”は、それこそ無意識に”仕込んでいる”のであり、「テンションが途切れないようにしよう」という目的を実行しているワケです。
(※人類ヒト科の「退屈したら死ぬ病」を甘く考えている方は→刑務所における囚人虐待とも言うべき刑「独房への監禁」を思い出してください。映画『パピヨン』などでもおなじみですが、主人公が発狂から逃れるため筋力トレーニングなどのストイシズム作戦で必死に抵抗するアレです)
極論すれば、人は何かすることを次々途切れること無く思いつかないと発狂します。
(勿論その中に”昼寝でもするか”も含まれますが、満腹であるなどそれを補完する代謝の前段設定が無いと難しい。→ネコがそれを可能にしているのは、そういう脳内物質を出せる性能を固有に持つため。)
ですからね(笑
手持無沙汰な時に出る台詞は「どっしよっかな」なんですよ。
(無意識に何かすることが前提になっている)
一般社会においては、通勤労働などでまー自分で考えなくともやること決まってるという状況に契約してますからあまり気が付きませんが、
古くは昭和の専業主婦のみなさんなどは”さぞ動機形成のストック造りの名人”だっただろうと思います。(遊んでいたら姑に何を言われるかもわかりませんからね)
「誰それのボタンが外れそう」だとか「冬までに手編みセーターを」だとか「新しいナントカって料理を会得しよう」だとか「野菜を育て始める」だとか、、、
サラリーマンも「休みになったら読もうと思っている本」をストックしていたりしますね。
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勿論、同じ原理で「強迫心理」稼働中の自我でも”動機形成のストック”を持っていたいところですが、あからさまに『自意識』共犯に持ち込むのもリスクです(「強迫心理」の存在が自分にネタバレする可能性がある)、結果グダグダになる傾向があるんですね。
「自分がガンになったらどうしよと思って」←【今回はまた随分唐突だな・・・】的に
■時に「強迫心理」傾向を帯びた自我は、何故か決まって「フラフラ『共同幻想』社会に近づいていってしまう(第三者から見ればあたかも狙って「不快紛争を獲得せん」とするかのように)」現象ありますが、
ほとんどのケースが”やるべきことだと思って”←だと思います。
自我にとっての通常業務というか、そういう仕組みになっとんのです、
ここ怠けると、おめおめと発狂するだけですから。
(『共同幻想』社会へフラフラに関して、どうしてなのかの理由を思いつく事に関してはノーリスクで『自意識』強迫フル稼働できますので、「やれだーだからこーだからと、体のいい理由が立て板に水で並ぶんですが」←勿論全てフェイクです《「国会における野党の言いがかり」で想像してみてください》)
HPのコンテンツにもありますが、
<<<そこでかの有名な以下のトンデモパラドックスが発明されたんです>>>
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