※ちょっと前倒しでアップしたんで論が十分に煮詰まってないのだがご容赦ください(末尾追記)
「本来は、個性化し過ぎて誰にも理解できない」←になってしまうのが自然
ところがこれね、
前回触れたけど、人類普遍のヒト科の可能性限界みたいな話で考えるとさ、
「個性化し過ぎて誰にも理解できない作品が、せめて自分でも理解できていればよいが」なのさ、
自我論でもいいけれど、音楽体験ってのも(ここは保守論)歴史的経緯や文化伝統とのエピソード記憶(この場合レスペクトだとかオマージュ)抜きに自分の創造性は構築できない。
自分に”こいつはいい出来だ”と体感できる理解が無いと「快感代謝に至らない(さっぱり自分で感動も躍動もしない)」=つまらないとなってしまう。
●個性論にはさ、もっと内面のってかメンタル的重層性があるのであって、
「 そ れ が どう 面白い の か」理解の分岐がまた別にあるワケだ、
つまり、
「当たり障りないイージーリスニング楽曲ながら、コンポーザの力の入れようは物凄く」←これも個性化
「何小節目の転調の前に、リードギターが一拍だけ瞬間リード部分を弾いている」←ここに気が付くのは随分音楽詳しい奴だけとかの場合、メロディラインとして意識的に難解な作品でなくても、(にわかには理解されない、俺だけの)個性化を実現可能なのです。
「細部に拘るマニア」っているじゃん、
「誰にもわからないだろうな〜」とか言いながらニヤける奴だよ。
■自己満足との違いは何かって話も出てくるだろうけど、
それ以前に、「自分も満足できない作品に意味あるのかよ」だろ?
見方変えれば、個性化の本質とは(いかにもな外形的な事だけで無く)
一見どこが違うのかわからないような、
「 そ れ が どう 面白い の か」理解の分岐のが本質じゃないだろうかって話。
こんなこと言うと一部JAZZファンの方お怒りだと思うけど、
ピアノの偉人の一人で先日亡くなったチック・コリアを俺はさっぱりいいと思えなくて、
(それはチック・コリア否定でも何でもないのさ、彼が面白いと思っているところを俺が発見できないって事。←はたまた俺の能力がってことでも無い、何故って聴き手としての「それをどう面白いと思うのか?」にも分岐・個性化があるからね。)
ロック界で起きた皮肉のひとつに、
反抗的音楽として生まれた”パンク”があるよね、
(演奏下手なのもプロレタリアートの証とばかりに、ジャンジャンジャンと単調なリズムでしか演奏できない味がジャンルとしてのパンクとなり、今度は演奏技能があるのに”パンクをやりたい”がために、後続のアートストが意図的にジャンジャンジャンと単調なリズムで演奏するというねww)
↑
始まりから言えば、
小さなライブハウスで反抗的な(あんまし音楽の譜面的知識の無い)若者達が、
勢いだけで乗る様だった筈がさ、
↓
現代日本の音楽シーンにおいて「マキシマム・ホルモン」なんて大メジャーな存在じゃん(笑
(これ本来は矛盾なんだよ→でも”いいんです”)
■サンプルとして当時のパンクを紹介しましょう(流石に現代で聴くと辛いとこありますがw)
The Clash - Rock the Casbah
この曲も(ある意味皮肉のパンクなのに)英国において大ヒットしております
(この当時デビット・ボウイの楽曲もこんな感じだったよね→ここから打込み系やテクノに繋がる部分もあるのかな)
えー前回紹介のツェッペリンとの違いがよーーくわかりますよね(笑
(演奏自体は《ここ意識的なんだと思いますが》大幅にチープになっている)
つまり、商業的ヒット作自体を(60年代のアングラ演劇界のように)
「商業的に成功していることそれ自体が否定理由だ」と考えてしまうのは無理筋で、
これは逆説的に、
個性化をアピールするために、無理して外形的にキテレツなことしなくてもいいんです。
(これってフリーJAZZ失敗論だけでなく、コンテンポラリーダンスなんかにも言えることだと思う)
普通に聴いて理解できる音楽であっても「そこは問題じゃないでしょ」と、
「なんかこう無理に誰もついていけない外形にしなくても」みたいなw
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