『エヴァ』と言えば「形而上学」であり、デカルト哲学
(「コギト・エルゴ・スム cogito ergo sum《ラテン》我思う故に我あり」の人です)
「物質・精神の二元論」やら、「魂の座《脳の松果体》」などなど、エヴァンゲリオン視聴者の方にはへーって話がズラズラ出てきます。
心理学、とりわけ俺が説明している(説明ってかフロイト・岸田心理学を経済学的に要約してるだけなんだけどさ)「『抗(あらがう)』・『被(こうむる)』論や、快・不快原則なんてのも」→まあほとんど同じ話が語られている。ってことは、フロイト先生にも大きな影響を与えた哲学だろと思うワケさ、
(ちなみにエヴァに絡むぐらいなんで、デカルトはカソリック系でありアンチ・プロテスタントらしい)
そんなことはともかく、
■wikiから拾ったんだが、心理学を予見している部分が以下の「心身合一の問題」
<一部引用>
『情念論』において、デカルトは人間を精神と身体とが分かち難く結びついている存在として捉えた。喉が痛いのは体が不調だからである。「痛い」という内部感覚は意識の中での出来事であり、外在としての身体と結びつくことは本来ないはずである。しかし、現実問題としてそれは常識である。デカルトはこの事実に妥協し、これらを繋ぐ結び目は脳の奥の松果腺において顕著であり、その腺を精神が動かす(能動)、もしくは動物精気 (esprits animaux) と呼ばれる血液が希薄化したものによって動かされる(受動)ことによって、精神と身体が相互作用を起こす、と考えた。そして、ただ生理学的説明だけに留まらず、基本的な情念を「驚き」「愛」「憎しみ」「欲望」「喜び」「悲しみ」の6つに分類した後、自由意志の善用による「高邁」の心の獲得を説いた。
デカルトが(能動としての)精神と(受動としての)身体との間に相互作用を認めたことと、一方で精神と身体の区別を立てていることは、論理の上で、矛盾を犯している。後の合理主義哲学者(スピノザ、ライプニッツ)らはこの二元論の難点を理論的に克服することを試みた。
『抗(あらがう)』《自意識系=自己》・『被(こうむる)』(無意識系=記憶・脳)、フロイトでいうとこの「昇華」であったり、『単独者』論におけるオルタナ・サブカル論とかさ、
説明の方法には若干の違いがあれど、理解して説明しようとしているものは同じだよね。
<さ、そんな事はともかくww>
ここんとこ『エヴァ』がらみて原稿に登場した、形而上学であったり(今紹介のデカルトもだが)自己(セルフイメージ)とは何かとかの話になるとさ、
やっぱそこに行き着くと思うのよ「我思う故に我あり」
俺はこれを→こう展開する「自己とは”考える事”から派生している」ではなかろうか?
形而上学を=シミュレーションとは 言 わ な い が
(現実論ってかさ、先の事を考えてるワケじゃん、先の事=未知だろ?ならば「今日の晩御飯を考える俺」って命題は、「わかりっこないことをあれこれ考える:形而上学」じゃん。)
ちなみにまたデカルト引用
コギト・エルゴ・スムは、方法的懐疑を経て「考える」たびに成立する。そして、「我思う、故に我あり」という命題が明晰かつ判明に知られるものであることから、その条件を真理を判定する一般規則として立てて、「自己の精神に明晰かつ判明に認知されるところのものは真である」と設定する(明晰判明の規則)
シミュレーション(これもwikiから引用)
ラテン語の 「similis シミリス(似ている)」「simulare シミュラーレ(模倣する)」「simulat(真似た、コピーした)」といった用語から生まれた概念である。
ほんとのところは、コンピューターやらプログラムで作動実験するモデルみたいな意味だけど、
「脳内シミュレーション」って言えば、あれこれ《物語のように》考えるって意味だよね、
そして夢ってのは無意識的・機械的・受動形(パッシブ)シミュレーションとも言える、
だとしたら?自意識はその反対だから、
意識的・主体的・能動現在形(アクティブ)シミュレーションする主体が”自己《自分》”ってことじゃね?
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タグ:『自意識』