『共同幻想』は過去用例だし(慣習や恒例行事《イベント》に近いかな)
亜流となる「強迫心理」もトラウマ論やフラッシュバックやホームシックなど過去の再現をベースにする。
●エンタメ論で言えば「毎週お馴染みサザエさんや、リバイバル映画」の類
これに対して実存主義的な現在や未来(将来のような意味では無いので未来と定義するのは違うかも知れない)進行形と表現するのもアレなんだけども、
記号で言えば「→先《未知》」な状態さ、
●エンタメ論で言えば「散歩やスナップ写真の感覚や、ロードムービー」の類
構造や仕立てとしては前者のが(幕の内弁当的に)豪華に見えるが、
後者は価値論として「都度ユニーク(唯一無二)であれば、価値論上∞(無限大)となる」
意味わからない人いるかもだけど、価値論の原則は「希少性」であって、偏差値ってのは「市場性」だから、固有価値と流通価値の違いがあるワケでさ、
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も少し補足すっとだ、
『血統書犬種』やサラブレットってのが前者であり(納得の流通価値)
「僕の大事なペッとの《雑種だけどこの世に唯一の》ポチ君」の無限の大事さが後者さ、
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一見すると後者は愛着や関係性が価値を生んでいるように”見える”がそれは違う
(当時差にとってはそう感じられるだけの話で)
経済原則の「限界効用」論や、第三者がそれを観察した時に普遍的に言えることは何かって、「そもそも自分が自分にとって特別なのは自分がこの世にひとりだから」のと同じで(主観的価値を相対的に論じるなら)”その犬は《流通価値がどうたらでは無く》”世界に唯一のポチだからさ。
■たとえばあなたがペットショップの営業マンで、
期日に仕入れるべきフレンチブルドッグの数に不足があったとする。
勿論その時にはフレンチブルドックの血統書付きの紹介があれば迷わずお願いするだろうし、
模様などの兼で、同業者から個体の交換の申し出があれば検討もするでしょう。
しかしさ、ペットのポチ君をとなりの家のお金持ちが「このイヌの方が柳津価値が高いので交換してあげますよ」と打診されて、はいそうですねって言うバカはおらんだろ〜が。
(見栄だけで自分の犬が誰かも知らない権威主義者ならわからんけどさ、、←まあペット愛好家からはキチガ〇扱いされるのは請け合いだわな)
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さて、このポチ君はその飼い主と出会わず、野良犬のままなら価値が失われるのか?
それは(質量保存の法則じゃないけれども)変化したら価値論としておかしいワケで、
=素でポチ君には”唯一の存在であるが故に”《個体としてユニークだから》「普遍的に計測不能な無限の価値がある」
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この価値を観察者が論じるか論じないのかは状況次第だが、
量子力学じゃあるまいし、観察者がいようがいまいがポチ君はポチ君だから、
<ちょっと話逸れるけど>
ドラマなどのシナリオで、
「無理解で感じの悪い母親」などの印象付ける時の典型的な演出も以下みたいなものでしょ
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「どこで拾ってきたの。その汚い野良猫、早く捨ててきなさい」
(実はその保護したネコが、父親勤務先社長が血眼になって探している愛猫だったら?←その嫌味な母親は目の前に存在しているネコを認識できておらず、認識してるのは”目には見えない”ネコの首から下がったタイトルなワケで、=実存論的には『共同幻想』適応も度が過ぎれば妄想家と変わらんなって話になる。)
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(ちなみにこういう趣旨でドラマ作る場合→こういう展開もあるよね、「親戚に押し付けられた養子を奴隷扱いでこき使っていたら、実は大金持ちが愛人に産ませた子供で、事故で実子を失った大金持ちの家から相続人であることを知らされたのだが、」←まあこういうの好きな人いそうだよねww)
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