むしろ『共同幻想』専用語として使用されるときの「常識や道徳」があまりにも特有の意味になっているので俄かに(誤解を招くといけないので)使用できないってだけです。
●実際仕方が無いので(あまりにも誤用が多いので)
このブログでは「道徳的反射NG」だったりしてますが、そんな事情です
この話の根本論は
「いくら強欲でも一度に米1トンは食えない」って話に起因します
(※一部の高額所得者はそれを仮想するために、高級クラブで何人もの従業員全員に高価な酒を飲ませるみたいな話も無いではありませんが、経済学的に国民全員にとかなれば不可能となります。→ほとんどの人はストックなり転売するだろうってねw)
経済学でいうところの「限界効用」です、
(甘い物食べたい時のお汁粉1杯目は美味しいが、100杯目は拷問である)
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「常識的に食べてもこんぐらいだろ(そのまんま常識論)」
「昼間から飲むなというけれど、かくかくしかじかぐらいのホニャララならとやかく言われること無いだろ(これも一種の道徳解釈論)」
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これは論理的に証明可能な話でもある、
(勿論程度の問題となれば、各々の判断になるけれど)
■つまりそれは「予めこうと決まったものでは無く」
それぞれの『自意識』が自己責任担保して
「なんらかの能書きなり、講釈を垂れる腹(考え)があるのか」って事に尽きるのだと思う。
(※『単独者』論では誤解を避けるために美意識ってことでまとめちゃっているが)
「程度の問題」って切り口で言えば。
「普通は、常識的には、道徳的に」だって語れるワケです。
(逆さに言えばそれを類型化したり偏差値化する『共同幻想』サイドの概念が話をややこやしくしている。)
●困ったことに、「強迫心理」関連局面で著しく「普通は、常識的には、道徳的に」が誤用を連発するため、にわかに使い難いとこもあるんだけれど、
そこは逆説です、
「それを『自意識』管轄の自己責任担保における「程度の問題」に回復させれば”強迫傾向”を抑える効果もあるのだろうと」←一歩間違うと大変な事になるので軽率には言えないんだけどさ。
少し前に書いた心理学テキストの
「話に水を差す」「話の腰を折る」って”話”←この運用ってのは、
程度の問題であり、同時に「社員旅行を誰が止めるのか論」でもある、
”強迫傾向”を”社員旅行”に重ねてみるとさ、
(確かにその論旨としてのネタバレ崩壊論は必須だが)
丁々発止、喧々囂々やりあう局面においては、「程度の問題だろっ!」出るよねw
常識論や道徳論は危険だとしても、
経済学の限界効用論は(方法論として)積極的に使っていくべきだと思う、
<お馴染み『一拍置く』「バカか俺」の根拠もそこにある>
↓
反動形成におけるレバレッジ(反動係数)語る時
「俺が大事にしていた冷蔵庫のプリン食った奴は10倍返し」
このプロセスを理解するのが、ネタバレ崩壊だとすると、
「ちょっと待て、10個も食って美味いのか」ってのが「程度の問題」
(プリン10個じゃ無いと許せないが転じて、快感代謝欲求がマジ10倍に肥大する←この仕組みの説明抜きに「強迫傾向」は語れない。→「絶対プリン10個じゃないと」→転じて謎現象発生「”みんな”《知人の話や取巻き論》10個食べたと言っている」)
・精神分析ってのは「最初のプリンは1個だったことのネタバレ」であり、
・精神分析をベースとする心理学は「欲求が10倍化し、限界効用論を超越する(現実からの乖離)」現象をひたすら解説する、
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タグ:強迫心理