哲学者ニーチェが危惧したのは、
●フランス革命に代表されるような、文化の大衆化(王侯貴族や教会権威者を殺して彼らの真似をしたってか、フランス料理が大衆化したり庶民がペットを飼うようになったのは貴族の真似なのです)、
それは現代的に言えばさ、
「重厚なクラシック音楽のポップカルチャー化」なワケです、
「バッハ」VS「アイドルグループ」
「貴族だけのセレブ政治」VS「ポピュリズム(民主主義・議会政治)」
(でさ、ニーチェは高尚な伝統文化が滅びると危惧したんだな→故に庶民革命を堕落だと思った)
(いろいろ意見はあると思うけど、三島の自決にも被るとこあると思う)
しかし、実際に近代以降の社会に起きたのは
「庶民の高学歴化と高尚な文化や宗教の世俗化(サブカルへの寛容さ)」だったのね、
おいきし革命の様子を目にする世代はそら危機感や不安もあっただろうけれど、
時代の変遷を考えりゃ(産業革命もあったワケだし)
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「あーなるほど、庶民の民度が中世貴族を超えてくんだ」←ここに気がついたかもしんない
■確かに近代以前の「宮廷芸術的文化」ってのは豪奢で高尚に見えたかもなんだけど
『共同幻想』の縛りがあるから=権威的・威圧的・神話的でなければいかんのであって、
設定として過剰に権威的だったりさ、
そっちはそっちの事情でワザとらしいとこあった
うんで現代クラシックで有名どころのラヴェルあたりは、米国サブカルだったJAZZの影響受けるじゃん。
ピカソのシュールレアリズムであるキュビズム画法の元ネタは、日本のサブカル浮世絵(アニメ画の元祖)だつたりさ、ニーチェが心配したようなことは起きなかった。
(古式ゆかしきクラシック文化も健在だし)
貴族の文化ってことで言えば、
そもそも欧米における貴族文化の始まりはギリシャ文明時代に始まるのかなと思うけど、
「貴族=兵士=軍」なのね、
ノブリスオブリージュで一番大事なことは王侯貴族階級こそ軍の先頭に立つ責任感のある階級であるって部分で、
ニーチェ的に言えば国を守る心や概念も無い城下町の庶民に軍隊は務まらない、貴族を失えば軍の力も大幅に下落してしまい国が亡びるって考えとなる。
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どことが明治維新でもお馴染みのとおりで、
(市民軍はフランス革命の時からの話だけど)
志願制でも徴兵制でも近代以降の軍は機能どころか中世では考え及ばない大戦争を可能とした。
平たく言えば、100倍強いワケだ(ここを前提に考えると米国におけるミシリア《武装する民兵》の意味も違ってくると思う)。
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この辺の感覚は「武士・平民に関わらず武装化し近代軍を作った薩長」に対して「戦うのは武士階級の務め」みたいな感覚だった幕府側の構図と同じ。
(兵士としての教練も”教育”だからね、市民の高学歴化と市民軍の創立は重なる話なんだわ)
●いずれにしても『共同幻想』は崩壊していくのだけれど、
世俗化ってのはニーチェが心配するような劣化や文化の喪失を意味しなかったんだな、
そして『共同幻想』時代の文化も保守され消滅とかしない。
三島なんか今でも日本文学の金字塔です、
クラシック・ピアノ、ショパンコンクルールのレベルが19世紀に負けているなんてこと無いでしょう。
(ニーチェの主張通りセレブの文化にかけがえのないものがあるのなら、そら後年でも残るさ。そこもニーチェ曰く”ポップカルチャー”なんてたいいたこと無いのだから。:中国の文化大革命みたいに知的階層大虐殺とかするのは一部の国だけだったからね。)
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