ここんとこ続いてるシリーズを引き続き、
強迫系というのが「過去用例の再現」にあるというのはご理解いただけているかと、
(その典型がエピソード記憶であり、トラウマ論である、PTSDにおけるフラッシュバックであり)
その確率的根拠は「二度あることは三度ある」って心理です
(文法で言えば過去形:英語の場合主張のニュアンスが”推定調”で弱くなる←政治家の演説では《へなちょこな印象になるため》用いられない)
これに対し”自由意志”と実存系となる『抗(あらがう)』の場合、
(文法で言えば、現在形、現在進行形、未来形→或いはポジティブ断定言い切り)
”そのまんまギャンブル”なので、
一見すると、過去用例の二度ある三度ある心理に”確率論的に負けます”
しかし、パスカルの賭け的な証明により「結果論には意味は無く、自由選択の真骨頂はプロセスです」←動機形成と戦略や戦術そのものに意味があり、
結果の勝ち負けは【極論等価値である=”どうでもいい”】
「結果を問わず”やるかやらないかの話”であり、実は確率上のリスクは皆無に等しい」
■ところが
脳の快感原則は『興奮』獲得期待値で決まります、
そして、
『被(こうむる)』のが『抗(あらがう)』より”思考の仕事量は楽”なんです。
(ぶっちゃけ低コストで誰でもいつでもできる)
しかし、
困ったことに”快感代謝”(快感獲得の確認メッセージ)としては、仕事量も多く”やった感””疲労感”がある方が優れており、実はこの点で脳は矛盾する選択をしているとも言えます。
●さて上記をぼーっと眺めていると「鬱構造の道理」に気が付きませんか?
↓
ベタな事例としてパチンコで考えてみましょうか
<<まず大前提を確認しておきますゲームのルールみたいなものです>>
1)結果論には意味が無く、快でも不快でも、勝ちでも負けでも脳が『興奮』を獲得できればよい
2)快感代謝の証明(やった感、達成感、疲労感)が無いと、欲求不満は解消できない
<『被(こうむる)』パターンのシナリオ>
「昔この台で連チャンしたので、またきっと大当たりするかもしれない」
(戦術も戦略も無く、その『興奮』期待値だけで選択:実に簡単)
打てども打てども当たらず、大負けしたとする、
しかし、この選択には戦略も戦術も無いのですから、反省も修正の余地もありません
↓
そして再び
「昔この台で連チャンしたので、またきっと大当たりするかもしれない」を繰り返す
<『抗(あらがう)』パターンのシナリオ>
「パチンコ台は概ね200分の1程度の確率で設計されている、回転数から確率の収束を意識するべきか、ホールの出玉設定を読むかの選択になる」
(手帳を取り出して小一時間の作戦会議の後)
「よし、今日はどこそこシマの〇番台で行く、1クールはいつもの6000円」
まずは打てども打てども当たらず止まり、だったとする、
(手帳を取り出して再び小一時間の作戦会議の後)
「いや待てよ、回転数からこの台の収束は明日でもできそうなので、新台を試してみるか」
結局こちらも最後は大負けしたとする、
手帳を取り出し何やら再び小一時間
「うーん明日は、〇番台の確率回収からだな」
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