『被(こうむる)』『抗(あらがう)』論発見時と同じ水準の着想な気がする。
言っとくけどさ、何も心理学的な新理論を発見したとかじゃ”無い”からね、
原理原則はフロイト先生時代にほぼ完結しており、
岸田教授の『共同幻想』論は、フロイト心理学におけるエディプス論の背景に欧米特有の宗教観があるので、(日本には無い社会性だから)日本に置き換えると何かと考えた先に、
吉本隆明の『共同幻想』論を用いれば、欧米・日本同じ概念で説明できると進めたもので、
何か新発見したのでは”無い”のね、
●心理学ってのは「特に説明が難しい学問」なとこが特徴で、
過去記事に書いているように『共同幻想』適応系人格には構造的に理解できないことになっていて(自分の人格を解体的に理解することに防衛反応が起きる→何故なら『共同幻想』適応系人格にとって、『共同幻想』は”裏付けとなる権威”であり、欧米で言えば「宗教」だから)、
ノーガードで『共同幻想』適応系の自我が自己分析すると自我崩壊のリスクがあるから注意しろって話があるぐらい。
(※ちなみに、俺はこの点心理学に自ら相談する水準にある自我は「十分その耐性がある」と考えているんだけどさ→てか第三者が分析したら安全の意味がわからん「寸止めしろってか?」→それじゃ『歩留まり』標準分析になっちまうぜ)
俺が頻繁に使っている
『被(こうむる)』『抗(あらがう)』論も→説明手法概念です
(中身は「強迫心理」と『自意識』の相克関係なワケでフロイト心理学のそのまま延長だから)
■「不快産業論」と「快感代謝のシェア争い」
或いは「自我内の”快感代謝”『興奮』総生産のシェア争い」
(真の意味でのポジティブシンキング・ネガティブシンキングの実像)
自我経済学で重要な概念に「反動係数」(レバレッジ《過剰化・誇大化》発生構造)ってあるけど、
そんな自我が産業構造的に「何の興奮を主力に”快感代謝”を円滑に行うか」
(この場合、快感原則として快でも不快でも等価)
「自我における『興奮』獲得主力産業は何か?」って論議です
↓
映画館にたとえると、主力で上映する作品ジャンルは何か?
成人向け映画館、洋画専用映画館、邦画専用映画館(東映系やら松竹系やら)、ホラー映画館、アクション映画館、アニメ系映画館、子供向け映画館、戦争映画館、社会派フォルムノワール館、文芸カルト映画館、恋愛映画館、ドキュメンタリー(動物)、ドキュメンタリー(社会)、ドキュメンタリー(教育)、、、
↑
この映画館のタイプって、人間における人格タイプの分岐そのままだよ。
「どういうコンテンツが好きか?」→そのままその人の素性に直結するやん
「何が面白い人か」或いは、「何のジャンルに最も高い『興奮』レスポンスを示すのか(快・不快に関わらず)」←嘘発見器のポリグラフに最も高い反応があるのは”どういうジャンルなのか”
(この世に普遍的な快や不快の分類など”無い”←あくまで主観がそれを分けているだけだ)
●「うちの目玉は不快産業です」←この悪循環とかあり得るから、
(スポ根もの好きとかさ、難行苦行からの逆転もの好きとかさ、一歩手前じゃん。)
事実、こういう会話が各所で行われている、
↓
「菅さんも凄いわよね、官房長官時代から8年も自宅に帰ってないんですって」
「どうしてそんなことができるのかしら」
8年無休で9年目突入って、政治が好きだからだけでは語れない。
激務の中頑張る事に『興奮』もあり、それが快だろうが不快だろうが「んな事構わネーんだよ」
ってのがあるから可能なんです、
※昭和にあった頑張るお父さんや働くお母さんの話も同じ
(そら子供のためって錦の御旗があるのだとしても、心理的には快だろうが不快だろうが「んな事関係ネー」ってなんとも説明のできない何があるのさ)
そんな快・不快現象にまつわる世界をだ、
実存主義哲学は『不条理』による実存と考えたワケね、
好きも嫌いも・快も不快も・善いも悪いも”これと切り分けられない”のが現実であると、
だとするなら即ち(切り分けられる概念が存在すると思う感覚こそ幻想であり)
現実とは『不条理』によってその実存が証明される、←みたいな?
(そして後の『単独者』の概念に至る→「俺が俺それ以上は無い」)
●つまり「それが(主観判定として)不快だとわかって『興奮』ネタ化可能なのは、何らかの『共同幻想』影響下にある自我だけ(或いはノスタルジーの影響で子供時代の『共同幻想』が干渉しているのか)」と言えるのかも知れない。
世の中には「投げやり」なんて言葉もあるけれど、”不快選択”にはどこかに自覚可能な分岐点があるのでは無いか?
(だとするなら、自覚的にそれを反転することも可能って話になる:所謂真の意味の通称ポジティブ・シンキングへ)
<この論議はまだまだ試論の域を出てないかな、、回を改めてまたチャレンジしてみよう>
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