「悩みが全て消滅したら、植物人間だよ」(思考停止してんだから)
相談も視野に入る悩みって何か?
●そんな定義があるのなら是非教えて欲しい、、《終わり》
俺は何事も自分独りで考えてきたので、自分に心理関係の問題が発生した時も「自己分析」であって、誰かに相談したことは無い(だから余計に”よくわからない”)。
人に聞いた方が早かっただろうかと言えば、
相談したことは無いが、岸田心理学の存在は人から聞いた事で知り得たのであって、
(それ以前のわかりもしない哲学で悪戦苦闘していたことも無駄では無かったが)
情報に接する機会は(それを獲得・選択する意味でも)多い方がいいだろう。
個人的意見だが、「探し求めて足掻き続けるから必然として起きている」気もするけど
(そもそも心理的問題発生の経緯だって文明化という情報化社会の流れの中で起きてんだから、その機会が《悩む側だけとか》どちらか一方に肩入れしているなんてこた無いだろ。)
↑
そんな意味からもこの事務所では心理学としては異例なことだけど「自己分析を否定していない」
(※「自己分析」を巡るリスクや可能性などは根拠添えて過去ログに多数書いてきたから、ここでは省略する)
つまり?
前述のように、相談の是非を決める定義など”わからない”ので、
個人的意見としては、「今まで聞いた事のない話に接する機会」に相当するなら、その相談は有効だろう(俺の個人的特性としてそれ以上人に何かを相談しようと考えることは無い)ってことぐらいしか言えないかな、ざっくばらんに言えば
「どういうことだと思う?」→「へー(そういう考え方があるんだ)」《終わり、ここまで》
↑
■(の個人的意見はともかく)
一般論としては
「確認」であるとか、どうしても《難易度として》理解できない新語や音楽などの譜面や外国語やら数学などの技術的な話は、そら聞いた方が早いワケで、
「まったくわからない、あくせく考える」その後→(情報取得のひとつとして)「どういうことだと思う?」→「へー(そういう考え方があるんだ)」→●などを踏まえ『また、自分であれこれ考える』
すると、「確認」であるとか「技術的質問」もそこに付随して出てくるだろうから、
それは確かに(直接聞ける人物がいるのなら)”聞いた方が早い”、
(※現代社会でフロイト先生に直接話が聞ける機会があるのなら、悩みが無くても何か気の利いた質問を必死に考えただろうさ。←何かを得たいと思っても、何から聞けばいいのかってレベルになるけど。)
↑
<誰でもわかってる話で面白くもなんとも無いと思うけど>
↓
●しかしさ、
「どういうことだと思う?」の次に→「へー(そういう考え方があるんだ)」とならなかったらどうする?
(※その典型例は保守派の頑固オヤジ)
↓
(この場合はシーンとして相談じゃ無いけどww)
「オイ、お前それはどういうことなんだ?!」
「かくかくしかじかですよ、そんなことまで説明しないとわからないのか?」
「んだとーーー!」(バチーンと卓袱台がえーーし!!)
→続きを読む
タグ:強迫心理