「何々をかくかくしかじかに思える」だとか、
「ってことはこういうことかなと考える」だとか、
↑
それ抜きに”本音”の動機形成は不可能です
(思いつけない、想像が及ばないことを実行することは不可能ですから)
(重要なことですが「それを模倣することも不可能」です→ピカソのキュビズムの絵を模倣するには、そら何らかの知識でイメージぐらいはできていないと不可能)
●さてしかしみなさん
「人間には思いもしない、想像も及ばない言動は無いのか」と聞かれば?
誰にだって、なにがしかそれっぽいことある筈です、
それは以下のような言葉で表現されることが多いです
↓
「何かの間違いで」
その違和感こそが「本音じゃないから」ってことです。
つまり『自意識』が自立的に行った動機形成では無いの意味、
「論理性の無いものは自我に導入できんのです」
(学校教育で考えれば誰でもわかりますよね?「はい、みなさんわかりましたか?」←このやりとりの中で概念なり思考というのは導入されます。逆に「わからないものは導入できない」)
↑
それが理解力の差異ならまだしも(時間をかけりゃわかることの範囲)、
最初っから論理性の破綻している事項を導入しようったって100パー不可能です。
(=それは本音になりようが無い)
<ちょっと分析的に考えてみましょうか>
「何かの間違いで」→代表例は?→「うっかりミス」
さて「うっかりミス」って何?
連想による錯誤行為ですよね。
↓
「あなた今日のコロッケは※※※※なので、いつもの癖でお醤油とかやめてくださいね」
と言われてんのに、
醤油をジャーで、
「ちょっと何をしてんのよ!!」「あっ”うっかり”」
■記憶法に連想法ってのがあります(所謂一夜漬け記憶法みたいな奴)、
「指=銀行」「耳=貝」「足=歴史」、、、、、←こんな風に”絶対忘れようのない”指や耳や足とかのキーワードに”関連付け”することで、通常なら忘れる事項もしばらくは覚えてますよって手法。
もうひとつ「ナクヨウグイス平安京」って記憶法もありますね、
「平安京=794年」
これはエピソード記憶の模倣です(ストーリー仕立てというか絵日記手法による疑似エピソード化)
トラウマ論で考えれば一目瞭然でしょう、
エピソード記憶や連想により「判断する猶予(考える間も)無しに超越的に答えがもう明示されているもの」(超自我領域の道徳野もその典型になりますが)
判断や、考える間も無いんですからどうなりますか?→『自意識』による判断や考えを超越する
「俺にとってコロッケは醤油」←この格言が「八紘一宇」みたいに自我内に君臨している場合、
『自意識』マターもバリバリ全開に緊張でもしていない限り、
(ちょっとでもオートモードになれば)
コロッケ見た瞬間、自動人形のように醤油をジャーっとやっちまうんです。
↑
人間の自我はそういう仕組みになっとるワケで
(これを全てパブロフの犬で説明するのは違うと思うのね)
●そこにトラウマ論をはめ込めばもっとよくわかりますよね、
「こっぴどいパワハラ受けた上司の顔見た瞬間お腹痛くなる」
↑
お腹痛くなるのは本音じゃないでしょ(お腹いたくなりたいなんて思ってないんだから)
人間の心理に度々起きる「強迫心理現象」ってのは、
ある意味「広義のトラウマ論」と置き換えることもできます。
「どうしてもそう思ってしまうんです」←よく聞きますよね、
=その意味するとこは?「本音じゃない」
と こ ろ が、
なかなか当事者には「本音じゃない」部分は強く自覚されません。
↓
「あなた今日のコロッケは※※※※なので、いつもの癖でお醤油とかやめてくださいね」
と言われてんのに、
醤油をジャーで、
「ちょっと何をしてんのよ!!」「あっ”うっかり”」
●「いや〜本音じゃやないから(悪気は無いだろ)」←平気でこう言えと「開き直るのか」なんて余計叱られますよね。
この場合の謝罪は前段の
「あなた今日のコロッケは※※※※なので、いつもの癖でお醤油とかやめてくださいね」←これに同意していたのに、生返事で(『自意識』の覚醒不足)無意識に「いつもの過去用例が優先された」ため、
「本音じゃ無い方が”出ちゃった”」ことを謝罪しているワケです。
(自我管理責任と申しましょうか、、)
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タグ:強迫心理