「始まりは生き残るため」です、
そして思い出していただきたいのが、近代以前はヒトの寿命も40代以下などトンデモでありまして、
日本においても気候の関係で生産が豊かだったのか、江戸時代まで「健康の概念すらありませんでした」(江戸時代に初めて”養生”なるマニュアル本が大ヒットするんじゃなかったっけ)
言うほど自分の生命も(儚すぎて)守り抜くって言えるほど堅くなかったのです、
死んでもいいとは言わないが、ヒトは簡単に死んじゃうんだよねって時代だった。
その中で(女王アリや女王蜂の社会性じゃないけれど)文明が続くとか社会が存続するとか血統が続くことのが守るべき永続性としてイメージしやすいワケで(なんせ寿命が40代以下なら”人生における家幻想時代”の占有率も非常に高くなります)、
●たとえそれが当時の権力者一族の永続性であったとしても「合理性」になり得た
だいたい、当時はそこに宗教性がからんでおり、
自分の死後のイメージも所属する文化習俗に倣うものであったでしょう。
江戸時代の武士における”お家大事”って言葉じゃないですが、
主君や宗教的権威や”お家”なる概念の保守は「リアリズムの点からも個人の寿命感を上回っていた」。
そんな『権威を守るための安全保障』が自分の命(死後も含む命運)に重なるのですから、
社会常識として「どれほどトンチンカンな『共同幻想』を守ることにも合成性があった」んです。
『権威を守るための安全保障』を超える価値などあり得ないのですから、
地球が平らだろうが、太陽が地球を回っていようが、神罰でいつかこの世が滅亡する話だろうが、
「どんなデマでも許される」んです。
■言うまでもなくこの経済認識が逆転するのは、
世界が平和になり、経済も豊かになり、個人の寿命が50歳はおろか70、いや80と伸びるにつれ、
個人の命の重みってものがそりゃ違ってきます、
現世と謎の死後の世界幻想との対比も変わってくる(現世が何倍も重要になる)
宗教的権威は自動的に世俗化し、
速攻消え去るだろう自分の命よりお家大事みたいな発想は、発想そのものがナンセンスとなる。
先日書いた「武田教授ネタのトンデモ『共同幻想』話」なんてのは可愛いもので、
「『共同幻想』の歴史とはトンデモ級デマが常識として横行する時代」なのであって、
仮にね、『共同幻想』系メディアが嘘をついたなんざ話もさ、
「いやいや、最初から『共同幻想』系を信用しちゃダメだろ」って落ち、
(嘘も方便上等って、それ専業にしているのが『共同幻想』なんですから)
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そこで”確信犯的再選択”の余地があるのは、
古代においては、神官が最高学位の教授みたいなもので、
欧州でもインドでも日本でも、学校の始まりは宗教系神学みたいなところです。
当時のアカデミズムとは宗教思想だったのであり(科学や福祉や性教育や公衆衛生まで多岐に渡る)、【当時の科学者の思惑】を知ることは初心にかえるじゃないけれど、原点となるべき知見が隠れていたりします。
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なんだかんだ、当時の考えは現代に連なるのであり(事実現代でも伝統宗教生きてますから)
「今流通している考えやら概念が全て現代人の発想と思うな」として、
”再選択”はあり得るんです(謙虚な人生観だったり、自ら進んで象徴化を受け入れるなり)。
(※その背景には、数千年前だろうと現代だろうと所詮人類ヒト科でしょ、脳がバージョンアップしたわけでも無いんだから。古代の英雄的知的トップが何を考えたのかって事に興味あるとかアリアリでしょう。)
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