本音ってのは感覚的なものでは【無い】
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●ここが一番の誤解の元かな
たとえば、科学者の本音・本気ってのは実験・研究の結果であって、
「こうあって欲しいと思ったこと」では無いよね(笑
確かにこの場合も、「本音はこであって欲しかった」なんて言葉が続く場合がある。
(そこもよくある誤解の元、口語ではそれが本音というワードになるんだけど、心理学的にそれは本音では”無い”からね)
「思ってしまうとか、欲しかった」などの過去形で語られる”ある心情”は、『自意識』の考えとは別に「そうなっちゃっていたこと」です。←それは本音では無い最大のポイントがココ
■「そうなっちゃっていたこと」受動形=自分の思惑とは別にあたかも既成事実化していた心情
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これが本心とか本音といえる?
あたかも「何者かにああつられるようにそう思ってしまうこと」でしょ
(そら、そのまんま、何者かの思いだろうよww)
単純な話反射的信条の代表例は「動物的反射」です、
ビビって吠えまくる座敷犬の攻撃性は本音なのか?←自然現象としては真かも知れないけど本音じゃネーよな’?
(そもそも家人の友人に吠えまくるって完全な誤解じゃん「ありうべき本音は飼い主さんのご友人、これは宜しくお願いします」でしょ、)
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その時はどうしてもその人をこうなんだと思ってしまい吠えてしまった
(失敗談としては真だけど、それを回顧してる『自意識』の語りこそが本音です)
●この辺は大いに口語の「本音」というワードの用法に問題があんだろうけど
口語の用法でそこがおかしなことになったのも以下の構造の顛末なのでは無いかと思う。
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■「”本音”というワードの誤用が口語の用例になってしまった原因」とは何か
近代以前は『共同幻想』人格真っ盛りです、
『共同幻想』とは、本人の意思を排除上書きする形で「かくあるべし」をインストールする行為ですね、
即ち『共同幻想』として導入された概念は「確実に自分の考えでは無い自覚があります」、
(下世話な言い方すりゃ「そう吹き込まれた他人の考え」ですわな)
脳の認知としてはさ、「だとしたらそれに反するのもは自分の考えだ」となります。
(実は、必ずしもそうじゃないんだが、速攻反対論で提示するとそうなるよね)
=『共同幻想』なる常識や道徳的知見に対する感情的反発のことを”うっかり本音と定義してしまう”
翻って演出度を高めれば、
「それが正しいとわかっていることに対して、反発する心情」
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ほら、「客人は飼い主の友人なのに吠えてしまう犬の心情(失敗談)」と似ているでしょ
ここから口語用例の錯覚が始まるんだわ
「本音はどうなの?」という問いが、
「正論に対する反射的感情(失敗談)を尋ねる意図」になってしまう(巧みな詐欺だよ)
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繰り返しになるけど、勘違いから飼い主の友人に吠えまくり、後から深く反省するような行為が本音だとしたら大変な誤解を招くじゃん。
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