まさかDNAに記憶領域のようなモジュールがある筈も無く”謎のまま”と言えば謎のまま、
あえて言うならば、脳のレスポンス(快感物質と受容体の関係)により、事象が劇場的に過剰演出され(脳内でBGM流れてるみたいに)、一発で”本能キタコレ”の解釈に至っているのかなと、
事がアリの社会史性なんて事に及ぶとテレパシーでもあるんじゃないかと(群体並列接続DATAベースの存在すたら疑ってしまう)、それはまた不思議な世界です。
■人間の場合と言えば
(各所で書いてますが動物行動学ローレンツの言うところの「本能の壊れたサル」)
知的認識領域の拡大に伴い(そもそも”お腹見せる””降参”のような認識される事象の単純化が無い)「認知の収拾付かなくなったため、やむを得ず(抽象概念の必要から)言語が発生した可能性すらある」のであって、勿論性的モチベーションが一般の哺乳類の(通常の繁殖期を1ヶ月と見做せば)12倍に至る「リビドーの登場」トンデモ進化に限らない謎もある。
仮に本能が「二項対立以外の選択肢をもたない(二択構造)」のだとすると、
人類は「複数の抽象的選択肢が重層化する(ロジカル構造)」に至り、
もう動物から見たら「何やってんのかわからない」生き物に進化している。
●しかしネコ飼い(羊飼いと同じイントネーションで)から言わせてもらうと、
良好な関係で、長く暮らしたネコには「間違いなく自我が顕現している」、
(抽象的選択肢の存在が観測できる)
生物学的には、二足歩行の結果異様に肥大化した脳の結果みたいに語られること少なくないんだけれど、
だけれどもですよ、
「後発的可能性、食うに困らないイエネコの事例、古代からの伝説の数々」
などから考えると、
一派の頂点に君臨する”トロフィー級の個体”にはひょっとして「自立的に獲得された『自我』があったのではなかろうか」と思ったりする。
(人類を「狂ったサル」と定義するのも分かりやすいけども、この状況は「種の頂点《主とか呼ばれる個体》同等の環境が種全般に発生した生き物」と言えるのかも知れない。)
ちょっと話逸れるけど、
ネコ飼いの間では有名なコンテンツ「岩合光昭の世界ネコ歩き」でどこの回だったか忘れたが、
広大な農園で飼われているネコが、明らかに豚に挨拶に行き、豚が柵から顔出して「なんだい?」みたいな様子にしか解釈できない絵があった。
(勿論農園だから登場メンバー全員が食うに困らない状況にある)
時に例のトンデモ系の武田教授が(捕鯨なんとかの論で)「なんだかんだと欧米では野生を殺して食べる(ジビエ)という習慣が減少して畜産などの肉を」って発言してますが、
●仮に食うに困らずが自我発現の条件なら「もっとヤバい(残酷)だろ」って話ですよ
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