考えてみれば、心理学テキスト的にどこいらへんまで書いてきたのか、ちょっと疑問なとこあるので、今回じっくり考えてみようと思ったところです。
加えて、メンタル問題に悩んでいる自我に関わらす「うっかりすると誰にでも起きる」勘違いです。
■ズバリ「承認欲求」の話になります
(「適応強迫」もその一環で派生する)
ひとつの典型例が、
全くの赤の他人に対する激怒などです。
「どこだったかの見ず知らずの人が、私のことをこんな風にバカにしているんです」
↑
ハイ、みなさん「何言ってるのかわかりませんよね?」
でもね、類する話は「すごーく多い」のですよ。
※勿論見ず知らずの人と不意に争いごとが起きることが無いとはいいません(ちょっとしたことでいさかいなど)、しかしその紛争を”個人を特定した嫌がらせ”であるとか、”瞬間で怨恨騒ぎ”のように発展することは無く(怒りのボルテージのエスカレーション具合により現実との乖離が確認できる)、
「何より、不良、DQN、暴力団、暴走族など承認欲求コンプレックスを抱える階層で典型的な心理現象である」ことが、その証明です。→「何見てんだコラ!」ってなるヤツですよ。
<だいたいこれ系の話に及んだ時の定番の説明は>
1)全くの赤の他人の時点で「お前誰だよ」ってことですから、
悪評も何も「特定の個人に感情リソース割くほどの”関心”が無いから」
(そんなめんどくさいことしても得することが何も無い)
2)『共同幻想』の安全保障として、
(『共同幻想』それ以外の人は全員彼らにとって”不審者”なので)
警戒感や、不安感を払しょくするため笑いもの扱いにするなどの例はあるかも知れませんが、
それは行為として、先方の事情によるもので、
個人の事情を特定したものでは【無い】
(てかお前が誰だかすら知らないから)
「あなたを悪く言ったのでは無く、あなたが(彼らの事情だと)”不審者”なので(自動的に)安全保障が発動した(故にあなた個人を対象に何らかの評価をしているのでは【無い】)」
3)そもそも対人関係のイロハ的に(ネコでもやることですが)、
赤の他人の様子を(相手が何を言っただどう思っただのと)後からコメントできるほど観察すること自体がご法度で、
「いえ私はじろじろなんて見てません!!」とかも言われちゃうんんですが、
そうじゃなくて、、、
それを認識しても目を逸らすじゃないけど(見て見ぬふり的に)”まー無かったことでいいな”みたいに(そもそも赤の他人なのだから)こちらも【無関心を保持】するのがクレバーな判断で、
後からそれを殊更に持ち出してコメントすることは得策では無い、
(クレバーの反対だから、愚かな行為を意図的にやらかしていることになる)
4)「人が自分のことをどう思っているか気になるとか」、
ドが過ぎたら、そのまんま「ナルチシストじゃん(お前芸能人とかじゃないから)」
<ざっとこんな感じになるのですが、、>
ほぼ100回説明して、100回大反論されますね(笑
「違いますっ!全部私が悪いって言うんですか!!」みたいに、
いやいや、、どこもそんな事言ってないから、、、
●言うまでも無く「承認欲求」の元ネタは”家幻想”です
米国の保守系世帯においては今でもそうだと思いますが、
家父長中心に食卓囲んで。上位権威に対する「お祈り」の音頭の後、
「よし」の合図があるまで食べてはいけません。
(逆らえば死ぬからってことで、、)
(イマイチぴんとこない人は、極端な事例で置き換えるけど→ワケワカメなキチ〇イ上司に叱責されて《自分にはパワハラなどの知識も無く》連日クビをチラつかされてる中で連日出社している状況を当て込んでみてくれ。←もう円圏脱毛症になってるとかさ、、)
一歩間違えば自分の命に係わるのでございます。
(近代には、現代の児相のような組織もありませんから)
『共同幻想』に仲間であると認められることは子供の生存においてマストであると、
不安どころか、リアルな恐怖として実存します。
※言っとくけど、”家幻想”の本家は『共同幻想』で、『共同幻想』バリバリの近代前後は先代の姑や近所の介入によって親世代も監視されていたワケ(おかしなこともできない:欧米の場合はそれを教会が監視していた←故の問題も起きてるけどさ、、)、
本質的には「核家族」以降は(あれだけ未認可保育園などを問題にしていながら)育児の研修もしてないド・素人(親)に投げっぱなしで子供の人権管理任せてる事自体を「オカシイ」と気づけよ、、いい加減(自宅が全世帯的に未認可なっとるじゃネーか)、
俺は『共同幻想』過渡期のリスクを抱えてる事に気づけよって言ってんだわ(全親世代に育児資格を取らせようなんだ言ってんじゃないからな)←このリスクをどう考えてんのってこと
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