みなさんジャーナリズムって言葉はご存じですよね、
事象を”何だったのか”を語る上でエビデンスになるのは”第三者視点”がある場合で、
この報道記者などが、そのレポートで「当事者の証言」を取り上げますが、
この「当事者の証言」ってのが【知人の話】になります。
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暗黙の了解の中でそれがどう切り分けられているのかと言えば、
(裁判における証言の判断もそうですが、利害関係のある当事者の証言は切り分けわれる)
当事者の証言はその当事者の事情フィルターで”偏る”のが自然なので(人間に限らず動物は現在の関心事項に関係することを優先する)当事者の話は→そこから当事者性を割り引いたところだけがエビデンスになる事象になります。
『共同幻想』や「強迫心理」(構造的に両者は”同じもの”:違いはその概念の共有)
それらの影響下にある自我の当事者証言は【知人の話】なので”正確では無い”んです。
●つまり「何々がこうだった」と断定した段階で”もうあっちの話”になってしまう。
(なので当事者は「私が当事者なので”そう思ってしまうのかもしれませんが”」と切り出すのが自然)
時に「強迫心理」案件になればなるほど、上記の『断定』が多くなるんですよ、
(強く「こうでなければ」などの概念に自我が押し込まれている状況ですから)
心理学的にはそれは「強迫心理」にとって都合のいい”取巻き”論的な(「強迫心理」を肯定する上で都合のいい断定が連発する)問題を多く含む心理的ウィークポイントとなるので、
ウチの事務所では【知人の話引用はNG】なんです。
(本人得する事何もないから)
端的に言えば、『共同幻想』適応系の自称一般人の方の「知り合いに対する証言」は、必ずどこか間違えている(正確性を欠く)ってことでもあります。←これを”色眼鏡”だとか”あばたもえくぼ”などど言う場合もある。
人物評の条件が「第三者による客観的意見であること」だからです。
逆説的に言えば『単独者』は客観的現実認知を得意としていることになります(そら情報共有により合理的現実認知する『共同幻想』に対して、自営業的に自分のアンテナだけを頼りとするのだから自然な話)、ただし『単独者』は特別その方面に知見が無い限り(『共同幻想』のように広範な事項への関心は無い)「関心が無いのでわからない」ということになるので、どっちが上とかありません。
●心理学なる特殊な状況(人間の自我構造などに関しては殊更詳しい第三者)
これって、言い方変えると「ルール違反なぐらい人物評が得意」と似たようなもので、
(だから何ができるって事では無く、聞かれたことには何でも正確性を論理的に担保したレポートが可能というだけ。)
そういう仕組みになっとんのです、
故に心理学の論議になっている時に「それとは違う知人がいます」みたいな自我防衛抵抗反論を始めちゃうと、物凄く回りくどい堂々巡りが始まっちゃうワケで、
■わかりきっている事なので事前に【知人の話はNG】になっちょるんです
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タグ:強迫心理