『共同幻想』論としてさ、
(あられもないとこからワケわからん話もあったので)
その典型である”言語”についても書いておこうと思う。
人類ヒト科はその昔、言葉は話していません。
どこから言葉を話すようになったのか?それは謎だけれど、
どっかの部落なりで発明した奴がいるんだろう、
(言語発明前でも狩りの時に手信号とかはやっていてもおかしくないからね)
箇条書き的な情報伝達する上でこれ以上無い便利な『共同幻想』が言語だけれど、
ある景観や状況全てを言葉だけで伝達できるか?
考えるまでも無く答えは「否」だ。
(こころに浮かぶ誌的情緒にしてもね)
論理においてはやれ弁証法だ、表現においてはメタファーだのいろいろあるけども、
●「”語彙を共有することで情報の流通が可能となる合理性”」
として始まった言語なる『共同幻想』は、表現しきれない限界を同時に証明している。
なんつったって「国語や文学」なる存在がこの世にあるように、
表現しきれないから無数の言葉があり、知識人でしか知らない使用頻度の少ない難解な言葉もある。
↑
仮に(そんな専門知識は限られた特権階級にしか習熟できないのだから)
広く多数の市井の民の事を思えば「必要最低限はこれぐらい」って合意に至る。
何故って”共有化”されなければ、情報伝達の意味を成さないからね。
■即ち
『共同幻想』の必須条件である”共有化”の効率を上げれば上げるほど、語彙は減り・表現可能性の幅は狭まる(典型例が義務教育における「常用漢字」の定義)。
↓
「限られた事象しか伝えられない(それ以外の現実は抑圧されるのと等価)」
↑
『共同幻想』認知リミッターの一部がわかりやすく表れているよね
■逆説的に言えば(それでも限界はあるだけれど)
『単独者』や確信犯的『共同幻想』再選択者の場合、”広く一般に共有化”が第一義では”無い”ため、
『単独者』においては自分自身、
確信犯的再選択者においてはコアなメンバーだけ、
その範囲で語彙を理解していればいいのだから、一般には知られていない専門用語含め「そもそも使用する”語彙””言葉”の限界が無い」
よく見かける話に、
コテコテのネトウヨ系保守論壇が、古語の漢字で表記するのを好んだりするスタイルを目にしたことあると思う。←これも”広く一般に共有化”が目的では無い例だよね。←差別化のため”あえて通じない言葉を選ぶ”
(しかし彼らのコアメンバーの間では、”そこには別の意味があって”表現の幅や、仲間判定リトマス試験紙なケースもある←「おっわかる人ですね」とかさ、)
ローカル『共同幻想』や、DQN系グループでも似た例あるよね
「仲間内だけで通じる方言」や「アホみたいな略語」により排他性(=仲間同士の確認)を効かせて群れの日常的安定を図る。
『単独者』に及べば、
極端な話、考える空間の過半が「独り言の類」なのだから、
言語よらない思考も多くなる(イメージ化された概念がわかればよい←説明できなくてもいんだから)
実際、芸術家に「作品を言葉で表現するですって?」←説明されても意味が分からないって状況はむしろ自然でしょ
(言葉で表現できるなら僕は文筆家になってる、どうして彫刻家やってると思ってるの?)
■見方変えると
『単独者』や確信犯的再選択者が、オンザレールな『共同幻想』適応者と会話する時、
(言葉が通じるように、お定まりの『共同幻想』概念や「常用漢字」的に語彙も選ばなければならないので)
まったく英語は苦手な人が限られた単語使って必死こいて説明するみたいな”もどかしさ”も感じるワケで、「素の『共同幻想』社会適応者相手だと意思疎通ままならない状況」あり得るのだよ。
(※ここにも「ナントカ障害は誤診かもしれない説」の一部が表れていると思わない?)
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