前回と同じ方かと思いますHN無し匿名の方より
>何度も申し訳ないです。純粋にこの友人といると楽しい!と思うから時間を割いて会ったり、遊んだりするのではないですか?つまらない人とはわざわざ会いませんし、友人は選びますよね?料理教室や仕事などでも一人でやるより、みんなでやる作業が楽しいとか一体となってやることも充実感を感じるとかありますよね?幼少期に親や友達、周囲の人間と一体感となっていたことが楽しい思い出や快感となっていて(これがkagewariさんの仰る共同幻想による洗脳教育?)、それを追体験として再現してるのかなとも感じますが。
ちょっと言語学的な説明が必要なのかなと思います。
「21℃であったが、現在は17℃である」←これと
「随分涼しくなりましたねぇ」←これ
●前者は事実関係の説明であると同時に後者で”語られている原因”を表しています
その時に
「涼しくなったねという私的情緒を伝えたいんです、その根拠となる因果関係を数値で表されても趣旨が違うんです」←となった場合
(哲学関係者の”メタファー”なんとかじゃありませんが)
情緒的表現に傾斜する場合、たとえば以下のような表現もあります。
「夜も更けて、風が冷たい長月の庭」←こうなると”温度は何度か?”はあまり論議になりません。
反面どうなりますか?
今度は伝えるべき主題が「涼しいに始まる誌的情緒(事象全体を俯瞰し”風景のように”表す)」となります。
この段に及ぶと、
↓
(こう考えるとわかりやすいでしょう)
↓
絵画論を考える場合
「ゴッホのひまわり」は何を表現しているのか?がテーマになりますよね。
まさか、
「コッホが伝えようとしたのは”何の花か”(=温度の数値は?)」の論議とはなりません。
■それらは別の事なんです
もういっこ説明しましょうか
「雑職系哺乳類は、高いレベルの栄養素食材を食べると(油の多い肉であったり高カロリーの甘いものなど)、厳しい飢餓がデフォルト環境であるため”この時とばかりちゃんと食べろ”と伝えるため、脳から快感物質が分泌されます。」
雑職系哺乳類は、その現象を「美味しい」と認識します。
いささかながら、”美味しい”は人間特有の情緒的表現になってますから、
もう少し客観的に言い換えると「また食べたい、チャンスがあれば是非に」となります。
しかしですよ、ここにも(哲学関係者の”メタファー”なんとかじゃありませんが)
詩的情緒のある比喩表現を使ってみると?
グルメ評論家の言葉
「あたかもそれは、繊細に美麗に口だけでなく鼻腔を刺激し、得もしれぬ刺激となり、笑みを浮かべてしまう心情を抑えることができない味覚であった」
この段に及ぶとですよww
「それは何カロリーですか?」←この発端となる仕組みの話ではなくなりますよね。
(話はそこに関連する雑味すら論議となる)
そこで体験される”食の風景”を語った話になっているからです。
→続きを読む