(仰々しいものでも無いので「『自営業』の雑感」ぐらいの意味で読んでくれ、、)
■大きなテーマは『共同幻想』だけでは語れないだろうってことすかね、
生理的素養として遺伝子関係も介在するだろうって(左翼な方から一発で差別と批判が飛んできそうな)、どうにも避けられないポイントがあるからだ。
勿論このネタでテーマになるのは「某○国」だ、
誰しもが感じる「あり得なさ」「どうしてそうなる(非論理性)」、
トンデモなプライド意識は随分歴史学者が一種の伝統芸能であることを詳しく語ってもいるのだけれど、いやちょっと待ってくださいよ。歴史は繰り返す級にそれが民族性として定着しちること自体が問題の本質では無いか?
このブログにおける心理学的根拠となる「岸田秀の『唯幻論』心理学」において、日本の戦前戦後を『共同幻想』論を中核に社会心理学的に分析しているのは(岸田心理学において)有名な話だけれど(ちなみに彼の論説に登場する歴史的事実の理解には一部間違いもあると指摘している向きもあるんだが)、「それ全部を『共同幻想』論で語れるだろうか?」と思うのも事実である。
●さて、どこで事象の切り分けを行えばよいのだろうか?
(ニワトリか卵か的な展開的に)
岸田教授が「やっぱり『共同幻想』でしょ」の優位な根拠としているのが、
「戦前具国主義社会から一発で平和主義な民素主義社会にド転換した日本社会心理の変わり身」だったワケだけれど(ここ同時代の人よく言う”昭和の伝説”で、軍国教育からいけしゃーしゃーと軍部が悪い平和と民主主義が大事であると”全く同じ構成員”で演劇のシナリオ変更のような《あたかも戦前の社会心理など存在しなかったかのような白々しさで》急展開を体感した)、
歴史的にはWGP(GHQの日本が悪かったという世論工作)などの陰謀論的側面も大きくて、
「いやいやそれは米国の占領政策のえげつなさの話だから」って見解もある。
一概に『共同幻想』論だけでくくるのもどうしたものかって思うじゃないですか。
日本において起きた大転換は、明治維新もそうだったし、戦後だけに限らず60年代安保闘争も似たところがある。
むしろ注目すべきなのは「『共同幻想』自由自在な変わり身」にこそ日本民族の特徴があるかも知れない。←この辺右派論陣は「コアとなる天皇が普遍だから市井は自由自在に転換できるのだ」って意見もあるようなので、構造論的にはDNAってより”やっぱり社会構造なのか”と考えることもできる。
※一部セルフ反論的なとこも付記しておくと
戦前前後のドイツ社会を論じる場合にさ、戦後ドイツの環境政策や緊縮財政などは「ドイツ人の心の『共同幻想』とも言えるルターの罪悪感」が背景にあったりする。ナチスをその反動と見る事もできるかと思うけれど、非合理的な論理への飛躍や現在でも人種偏見多いんだが(ベトナム人差別など)的な側面から「やっぱりルターの罪悪感じゃん」みたいな見方もあってだね(ドイツ人社会心理に『共同幻想』を媒介にした転換など無い論)、うーんってところもある。
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タグ:『共同幻想』