(社会学的には国家論とか会社などの組織論の話なんだけど)
フロイト心理学におけるエディプス・コンプレックス論であり、
岸田心理学における『共同幻想』論の”展開場面”である。
■『家族共同幻想』(”家幻想”)
主として現代のメンタル問題に関係するのは
「産業革命以降・高度経済成長『共同幻想』モデル」となるんだが、
フロイト先生の活躍時代は「近代宗教革命『共同幻想』モデル」だったのでしょう。故に当時のフロイト先生の話に登場する症例は「おおよそ上流階級世帯だとか貴族階級などの話」であって(そら一概には言えないけどさ”プチブル階級”が主体と言って間違いじゃなだろう←少なくともこの時代の当事国は複数の植民地を所有する側だったのだから)、
同様症例を古くひも解けば王家や特権階級に見られる話となる。
メンタル問題の背景として
「生活するに困らない豊かな環境」が前提となるからだ。
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故に高度経済成長による先進国にテイクオフした国においては、
メンタル問題が全階級(国民全体)に及ぶ話となる。
■ざっくりこの辺の経済的背景を踏まえることが理解の近道で、
反面「生き死にが身近すぎるド貧乏」なる生き様がどれだでエキサイティングで「人生エンタメ論的に快感代謝が滞るなんて隙間すら存在しない」ことを示唆している。
(命賭ける殺し合いの格闘技真っ最中の野郎どもに欲求不満が発生するだろうか?ってさ、同時に少しでも受動系を見せるカモはそもそも長生きできない社会ってことにもなるから。←症例発現する前にもう命が無いワケで、、→棲み分け論的に受動系サイドも命懸けで新天地を求めて逃げる《アクティブ行動》を選択するので→環境が受動形を継続させない《そして民族遠征の神話もうまれる》。)
●話を簡略にする意味で
本論ではひとまず「メンタル問題とはプチブル病である」と定義します、
逆説的に言えば「退屈しのぎ(それが趣味や主義や使命や放蕩でも形式・様式でもサブカルでもなんでもいいのだけれど”それぞれ自分なりの面白いこと”)を文化や習俗として自力で思いつけなければ、速攻『退屈したら死ぬ病』が発動する」ってことです。
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経済学で言えば「伝統的農業・工業からの離脱(『共同幻想』の崩壊)、とりわけ第三次産業(サービス業)の拡大は、自ら需要を読んで何か面白いことの提供無しに発展の継続は望めない」←故に先進国経済の維持においては”プライバシーや個人の自由(創意工夫)”は必須となる。
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そもそも伝統経済からの離脱は(エジソンやらアインシュタインじゃないけれど)知恵の実食べた人類ヒト科が内包していた”性(サーが)”であって、いいも悪いも無い。
先進国テイクオフ以降は(わかりやすくいえば奴隷解放なんだから)
「好きに考えて行け」って社会のシフトチェンジが行われるのは人類の運命みたいなもの。
(若い人で”プチブル”ご存じないかもなので→”プチブル”って「小ブルジョア」って意味。ブルジョア《資本家特権階級》気取りの小市民みたいな?フランス革命以降に貴族の真似事のようにレストランで料理食べたり、ペットを飼ってみたりと一気にブルジョア趣味が大衆化するんだが、そんな様から始まった言葉かな。)
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