言語と自我構造の関係を考えれば考えるほど
所謂オカルトネタ的なさ”民族のDNA”なんてものにいかほどの意味があるかと、
(勿論末端組織である家族社会により伝播される『共同幻想』もあるけれど)
事象の認定や思考方法なるパターンはかなりの部分が使用言語に依存するのではないか?
一時の論議で、
「欧米言語は表音文字で、日本語は表意文字だから」みたいな話もあったり、
「いやいやかと言って漢字を使う中国語は運用的に表音じゃね?」だったり、
ここは言語学のアレじゃないので、それ以上の話は無しにしますがww
英語表現のなんとか記事を書いている時に、
存外に人の脳に言語の文法や思考法の流れが大きく影響及ぼしていると感じたのです。
さらに
●それが欧米人の心理でどうなのかわかりませんが
少なくとも、日本人は思いっきり容貌が外国人が「日本語ペラペラだと妙に安心する」のも確か。
この妙に安心する心理の中に、「日本語話せるならわかるよね」みたいな暗韻がありはしないかって話です。
それは期待だけなのかもしれない。
いやはやそうだろうか?
様々論議もあると思いますが、
日本人の傾向の中に
「日本語ペラペラの外国人は何かが別で仲間だから」
という心理が存在するのは確かだと思うのね。
流石の日本人も腹の底からバカってこともないでしょうから(笑
そこには、自我同士の情報流通における”ナントカ性”みたいなさ、
どこか気が付くところがあるんじゃないのかね?
※重要なボーダーラインに「ペラペラと認定したか否か」が関係してるけど
■以前から思っていたことですが
外国人労働者云々の件
コテコテ保守派のみなさんは相当に強い批判していますが、
(特定アジア某国はともあれですよ)
そんな保守派のみなさんでさえも、ランダムに多様な国籍からの来日、そして日本語ペラペラ後の帰化後の日本人には何も言ってませんよね。
そのこころも”そこ”じゃないのかしら
「あー日本語ペラペラなのね」
古くは故野坂昭如氏などが、
「言葉というものが壊れている、言葉を大事にしなければ云々」
酔っ払いながら激怒してましたが、
野坂氏の発言趣旨には重く受け止めるべき内容があったのではないかと思うのです。
(そして英語をひっちゃきに勉強して無理して英語で歌った日本のタレントはさっぱり成果を挙げず、BABYMETALじゃないけれど、そのまんま日本語で歌って実は全然OKだったことなども←前回紹介した日本シティポップに対する海外からのアクセスの件もそうです。)
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