あれこれ考えるうちに「あれもか、いや、これもか」とズルズル同様の話が出てきまして、
別項として書いておくべきだろうと思った訳です。
仕組みは実に簡単で
(ひょっとするとここにも承認欲求が関係しているのかもしれないのだが、、)
■「盛れるものなら、少しでも盛っておきたい」
一種の保険のようなものですが
しかしながら、これが結構邪魔というか…、
いやいや「羞恥心の壁」があるのだからやむを得ないともいえる、
そもそも論的に羞恥心ってのもかなり意図的な設定というか、自己暗示のようなものですから(現代的にはマインドセットの一種かも)、当該自我には罰ゲームみたいなものでもあります。
説明するまでも無く、羞恥心には個人差・民族差・国際間の差が広大にありますしね、
そこで”粋”というかセンスというか、
表現者には”邪魔にならない羞恥心の壁突破法”がひとつの見せ所にもなる。
広く社会一般に見られる現象としては、
・芸術表現のひとつに代表されるのが『道化師・ピエロのコスプレ』であり、
・日本の伝統芸能における『面』であったり、
・学問好きな人の「キテレツな専門用語」であったり、
・文化的ハイソを自認する人の「(アウフヘーベンな)横文字病」だったり、
・『共同幻想』適応人格における「ブランド志向」や、
・ドイツ人職人の「オーバーエンジニアリング(過剰にギアが多いよ)」
・日本大工の「その欄間はやり過ぎだから」だとか、
・ヤンキーの謎ファッション
・ゲーハーの「濃すぎるズラ」や、
・夫の前でも外さない米国黒人女性のウイッグや、
・アンチエイジングな人の注入過ぎななんとかオイル
↑
あげればきりが無いのですが、
■羞恥心ってのは密接にエディプスコンプレックスと深い関係にあるため、
権威の概念とは違うんですが、羞恥心の概念は「あたかも超えるべき権威条件のハードルが存在するかのような振る舞い」をします。
昭和のアンチテーぜには以下のようなものがありました
「休日のお父さんがステテコ一枚で外を出歩くので恥ずかしくて」なんとやら、
(これを象徴化したのがドリフターズのコントにおける加藤茶のオヤジコスプレでした)
つまり
「オンデューティー(on duty)状態の社会に暴露中は羞恥心が稼働する」
逆説
「オフデューティー(off duty)状態でプライベートと認定された空間では羞恥心が解除される」
∴故に
「職務上の行為やその関連、他、音楽や芸術など、一般社会を対象に表現される行為には必ず羞恥心の壁が発生する」
●昭和の言葉で言えば「よそ行き」
(※逆に言えば、現代社会はSNSなどの普及で「オフデューティー(off duty)」が監視され、息を抜く空間が不足しがちな傾向にあります。←勿論『共同幻想』社会のケースですけれど。)
<話を「”粋”というかセンスというか」に戻してみると>
(誰が思いついたのか知りませんが)
そこを皮肉って編み出したのが、
「ダメージジーンズ」であったり「エージング加工」だったり、
(ひょっとすると現代のミニマリズムにもここ関係しているかも)
無意識に”羞恥心の壁が(脳の快感獲得上)邪魔であること”は(それこそ皮肉なことに)かなり普遍的に”共有”されてるんだわww
(心理学的対処として、恒常的な欲求不満への一次的且つ初期的対応に「ひとまず自室で全裸」ってのがあるのは、ホントこれ論理的根拠のある話だから。いかにも『共同幻想』適応人格における定番「自家用車で大声出して歌うたう」とかも着想としては同じ。)
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