つーか、経済学で考える方が理解が早い。
フロイトが力動論なんて微妙な話(説明手法)を試みて余計意味の分からないことになってしまうのと比較しても、経済学の量的理解の方が分析時の構成や構造を理解しやすい。
羞恥心論の補足で考えれば、
経済学における「消費動向の心理」そのもの。
どれだけ高性能な商材でもその有用性が巧みに広告されない限り、或は口コミでその斬新な利用価値が喧伝されない限り新しい需要は生まれない。
現実(商材の性能)がそうだからといって、自動的に消費者サイドにその合理的需要が発生するとか”無い”ワケです。
●そこの面白いポイントが羞恥心
面白い商材があるぞと思えても(その中身を十分に理解しても)
「いやあこの歳でこの○○は無理でしょ」だとか、
(ある意味逆説だけれど)
昭和のあの時代に録画ビデオ機器が大量に売れるきっかけ(且つVHSがβに買った理由)
それは、アダルトビデオ片手の訪問販売だったりする。
(訪問販売だったから羞恥心のフィルタを突破できた→ここはなんとかのドンファン事件における”昭和のコンドーム訪問販売”なるカテゴリにも被る話)
■さて自我論としてここを考えると
先日の海外『BABYMETAL』反応記事における「メタルの格式論」である。
http://kagewari.seesaa.net/article/461660030.html
これ一般経済の消費動向で考えると、
「なになにって商材が面白いとか有用ってのはよくわかるけれど、家柄としてこの商材は無い。恥ずかしくてとてもとても」みたいなことだよね。
この辺の話がぐるっと回ってメンタル問題などにおける「醜形恐怖」であったり、「何故(何が面白くて)『共同幻想』社会にフラフラと近づいてしまうのか」などの疑問に答えることになる。
羞恥心ってのは『共同幻想』が個人を縛る強制力(権力)構造の重要な歯車のひとつである。
これどういうことか?
宗教戒律なんかで考えてもわかりやすいんだけど、
「性器を隠しなさい」
間接的だけれど
「個人的欲などいうものはエログロなのであり、権威が認めたもの(結婚)だけが恥ずかしくない欲求として認められるのである」→自動的に異教徒は存在自体が破廉恥なものとなる。
『共同幻想』論で言えば、
利権の分配こそが現代権力の源泉だけれど、
そんな『共同幻想』適応人格者には自動的に「欲求とは正規のこの料金のこれぐらいのものじゃないと認められないのよ(公式に認めたもの以外の欲求は破廉恥なエログロなのである)」←こういう(金があるから高価になるのか、高価なもの以外認められないからはっちゃきになって金持ちになろうとするのか)マッチポンプの構造にあるワケだよ。
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