2018年09月08日

「音楽(や芸術)と羞恥心」(1)

一概に「音楽(や芸術)」をフロイド曰くの昇華と考えるべきではないでしょう。
(それこそそいつは”デカい話”だ←そもそも論として俺はフロイトの昇華論に否定的見解です)
”表現”という動機形成においては「素人レベルでも何だっていいんです」。
(それを芸術の領域云々に判別するのはそれこそ偏差値認知であり『共同幻想』なのでどうでもいいことだし、自身の表現を”何だと思うか”なんて自由ですから。)

さて、ここから本題ですが、
事、人が音楽や芸術表現をやろうと思う時、ぶち当たる壁が『羞恥心』です。
(何故防音のカラオケBOXなのかって話ですよ)

わかりやすいので「音楽」における『羞恥心』ってものを考えてみましょうか。
はてさて、世の音楽家は全てこの羞恥心を乗り越えているのだろうか?
「違う」と思うんですよ。

さーて、何の話をしとんのかと言うと、
(書いていて、自分でこれから長文になることが予見できて嫌になってきておるんだが、、)
「それをいっちゃ〜おしまいよ」みたいな不文律の話。
●「絵画モデルとして全裸になることの抵抗感は、唐突に通勤時間帯に駅のホームで全裸になるのと大きく違う(これを温泉他共同浴場における全裸と比較すると更にその差は大きくなる)」
 ↑
”プロ”という称号はなんだかんだで人の羞恥心のレベルを後退させます。

●「盆踊りや阿波踊り、踊り表現の抵抗感は非常に低いですね(更にその中でも”専用の衣装の着用”などの差異はある)。しかし、唐突に通勤時間帯に駅のホームで奇妙キテレツな祖素悪ダンスを余裕で踊れる人はまずいない。」
 ↑
”文化・伝統”元祖『共同幻想』の共有あるところ、羞恥心のレベルは消失さえします。
(この辺は現代社会における”自由恋愛幻想”のなんちゃらの話もちょっと被っているかな)

さて、音楽と言えばすごくベタなところだけれど、
駅前のストリートで演奏や歌唱するって相当の決断です。
(冒頭のカラオケBOXの話じゃないが)
しかし”その表現固有の動機形成”における羞恥心レベルだけ切りだして考えれば、入浴中の鼻歌に抵抗感ある人は滅多にいない。
「ストリートミュージシャンは自己顕示欲求から”他人に聞かせてナンボ”なのだから全然話が違うだろ」←こんな疑問持つ人いるかもしれません。
 ↑
さーて、ここに重要なポイントが関わります。
自己顕示欲求だけなら「演目は何でもよい」事になりますが、
そうではありませんよね?
(ある意味そこは『共同幻想』承認欲求なのかもしれないが)
「この音楽をやりたい」って個別の目的があります。

ですから?

仮にですよ?

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posted by kagewari at 19:52 | 精神分析時事放談 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする


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所謂臨床系の言うところの行動療法ってほど堅い話ではありませんが期待感あるアプローチだと思います
自我と時間』参照




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