戦争論でちょいと書きましたが、
■「ドデカい事やスペクタクルなインセンティブ」は、場合によれば人間性なるリミッターを乗り越えてしまいます。極論すると全能感というか、
(細かい事ですが心理学的には”人間性”なる概念は存在しません。上記はあくまでも一般用語としてわかりやすくするため記載したものです。)
「話を大きくしても得になることは無い」←個人の視点で言えばね
場合にとって、それは”自分”なるものを定義している個性を踏破してしまう可能性があるからです。
ひとえにインセンティブなる用語があるように
『共同幻想』はその手法を用います(故に個性の一部を放棄する契約があり得る)。
「大きな○○が得られるんですよ〜」
宗教で言えば
「それが神の意思なのです」
■「俳句のワビサビにあるように」「江戸時代の粋の文化にあるように」
人は瑣末で小さなことでも感動できます。
(感動って言えば語弊があるかもしれないので厳密にいうと、心理学的な快不快原則に関わる『興奮』のプロセスを起動できる←みたいな意味。)
「小さなことでも個人レベルの快感代謝は可能である」
↑
効率的にはこちらの方が合理的ですね?
さて、ここで困った事がおきます。
小さい事への感動は、極めて個人的(個性分野の)着想や視点からしか生まれません。
松尾芭蕉はともかく置いておいて、
ほとんどのケースにおいてその感動は人に伝えられないし共有もできない。
「私にとってそこツボだった」←ありますよね、一人だけ爆笑してしまう現象。
効率も効用も高く合理的だが「単独行動下」であることが条件になります。
ある意味それは
『共同幻想』適応系自我の動機形成論と、『単独者』の動機形成論を表しているのかも知れません。
(『単独者』には儲け話の必要性が無い)
そんな話に及ぶと、
「『単独者』は小さな瑣末な事しかできない」って思われるかもしれません。
いやいや、そういうこっちゃないのです。
●快感代謝や動機形成のトリガーがそうだって話なので
実際そこを発端に何をやらかすのかってのは、
現実世界の現象論に過ぎないので「わからない」が正解です。
(『単独者』に公共性が無いというものでも”無い”。現実や環境はむしろ『共同幻想』系よりリアルに視野に入ってますから。)
逆に言えば”偏差値”を重要な基準とする『共同幻想』の場合、
事の大小は半ば普遍的差異と”錯覚”されます。
小さい事をうむを言わさずに「くだらないこと」と断定してしまう傾向を持つ。
(逆に言えば何か殊更のスローガンみたいなお題目や企画性が無いと、実行に移すことが難しい。)
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