「エヴァンゲリオン」の話じゃありませんよ。
フロイト心理学において性欲と訳してしまったため(訳自体は正しいんですが)『リビドー』の理解があっちの方にいってしまった件をちょっと詰めておこうかと思います。
■フロイト自身からして、その研究の中『リビドー』を狭義の性欲から広義の性欲へ概念拡大しているので、心理学書などの解説書で「直訳的な”性欲”という表現そのままになっている」ケースも少なく無いことが、誤解を拡大させてる部分もあるでしょう。
(今回の記事も心理学テキストですが用語解説のとこにリンクさせておきます。)
果たしてここで言語的解釈の必然性あるのかわからないのですが、
語源のラテン語「libido」の場合「気まぐれ」とかの意味らしく(むらっ気みたいな意味もあるんでしょうか?)それが何故西洋語圏で性欲の意味に転じているのかも不明です。
フロイトが対立概念として説いた(これもまた「死の衝動」としてそれもどうかと思う訳になってしまうわけですが)『デストルドー』。
この『リビドー』『デストルドー』の対比関係「エロスVSタナトス」でも同じだよって説もあるんですよね。
言葉として(リビドーでは無く)「エロス」なら広義の意味で解釈できます(なんと言うかルネッサンス的な)。
てか(そもそもフロイトの「死の衝動」論は力動論の説明がしたいばかりにかなり無理筋に出てきたものという見解もありまして)、
『リビドー』内向化をナルチシズムと定義しちゃうと『デストルドー』はどこいったの?みたいな事にもなるのであって、
■私は岸田心理学『共同幻想』論の着想から(フロイト力動論の構成をちょっと見方の角度を変え)「経済学で考える方が無理筋無しに辻褄が合う」と考え、
転じて(エネルギーだとか情動量などで考えるより)「需要と供給と投資の関係」みたいな角度で説明する方が力動論の説明趣旨に合致していると判断しています。
(サプライサイドかデマンドサイドかみたいな分析もできるし)『被(こうむる)』と『抗(あらがう)』で解釈していくことで、フロイト心理学力動論部分を補完するだろうと。
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●(原書も読めいアングラ研究なので)日本語説明上の都合でこうなっている部分もあるかも知れません。
リビドー論の原則や解釈に変更加えたものじゃありません。
もうひとつ考察入れると、当時から欧州の文化的に経済学ってものを容易に学問として見ていいものかって部分あったでしょうから、そういう意味でも経済学はモチーフとならなかったのかも知れません。
(更にフロイト時代と言えば、経済学も「古典派経済学」の時代で”まったく役に立たない”だけでなく、その後の近現代経済学からしてフロイト心理学の影響を受けていると考えることもできます。←故に現代では力動論を経済学的に説明すると理解が早いのかも。)
■話をフロイト心理学が何故に「リビドーを性欲」と捉える事を(さぞかし当時のキリスト教圏からのやんやの批判も出るだろうに)「あえて選択したのか」ってとこを考えてみましょう。
説明するまでも無いんだけれど、
フロイトは自我の発展段階をほぼ「反抗期に符合させる形」で説明します。
(自我の主体性などがどのように親子関係など間で発現するのか観察のなか、どのように論じても「各『反抗期』が、次のフェーズへの切り替えポイント」になりますから。)
そこで、
「エディプスコンプレックス」の発見に際して、
思春期『反抗期』の在り様は決定的要素になるし、この思春期『反抗期』時における(性的関心に対する罪悪感などの)心的抵抗の原因は乳幼児期に遡って解釈しなければ説明ができないし、
大人の性衝動の中においても「そのまんまバレバレの幼児期関連のフェチシズム」が観察されることから、「幼児期不能者の性欲(快不快原則に関連する幼児期対人関係の関わり方)」と断言するワケじゃないのですが(乳幼児にも普通に存在する)所謂性愛関係というくくりの中、
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人類以外の哺乳類に見られる『繁殖期』とそれ以外の日常の本能による行動様式を見た場合、岸田心理学的な解釈として(ここはローレンツなどの生物学的解釈ですが)人類ヒト科を「本能規範が壊れ欲求がカオス化した生物」と定義する流れから、
この辺前後をまとめていくと
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●人類が「大元は本能なのか、『繁殖期』を司る衝動なのか、それはともかく」
「繁殖期の24時間36日化による進化」を根拠に、カオス化した欲求をインフレさせている生物である以上、「生存・生命・生きる全般への(主体的能動的)欲求」を、『リビドー:性欲』と定義することで、大きな転換点である思春期『反抗期』に自我に発生するプロセスの重要性を証明できるのです。
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