それは見方の問題って言えばそれまでですが、
「惑星の寿命で太陽が爆発する事を(自分個人の不安として)心配する人はいない」ってのがありますね。
・個人の寿命はぜいぜいが100年なので、それを遥かに超える事象を(理論的にそれが確実だとしても)視野に入れて憂慮する事は無い。
・プライバシーエリア的には視界に入る(江戸間4畳半とか6帖とも言われる)自分周辺の空間以外の距離に位置する事象はそれほど気にならなかったりする(他人事的に)。
権力者や概念としての国家(国籍感で言えば”ほぼ普遍的”『共同幻想』論的ナショナリズムにも及ぶ)であれば、安全保障上だったり地政学上の”安全圏”ってな発想にもなるでしょう。
(故にバルカン半島じゃありませんが、ここが何故みたいな諸国を巡るうん百年係争が発生したりする。)
ガチ安全保障で考えると「想定される(周辺他国も含む)安全確定圏まで考えて、戦闘機の航続距離がどうこう」って論議にもなるでしょう。
■ここからメンタル問題の話です
心理学の原則論から、
「強迫心理」が介在すると「現実との乖離」が起きる。
即ち(「強迫心理」もと元ネタが子供時代特有のデフォルメされた『共同幻想』であるため)、不安と対象性を成す安全圏の範囲ってものが、(射程距離的にも)無謀に広がったり、逆にものすごくどうでもいいような瑣末な事象がトンでも不安を引き起こしたりします。
↓
この事象に対する合理的な安全圏が見えなくなる(視野が漠然と無限になったり・逆に狭窄化したり)この妥当性や合理性が想定できなくなる要素は、個別事象の問題性より大きい。
↑
やっかいな問題で、確かに不安な案件として遡上にあがるテーマの個別具体論に何らかの解決的な方向性がみつかれば沈静化するのは”事実であるように思える”のですが、
のですがー
「そうではない」のです。
●個別具体論に何らかの解決的な方向性がみつかったり提案された途端、
これがトリガーとなって
「あー言えばこういう的に次から次へとモジュールが発動し機能全開に」
なんて事にもなるのですですよ。
「個別具体論に対しさくっと解決的かつ有効な方向性を”提示しない方がいい場合もある”」ぐらいの話なのです。
何故なら?
■そもそも論として、不安の射程距離的に「ないでしょう」が確認される場合(理由として語られる事象のスケールと自我興奮の水準がアンバランスである)、
論議の中心は「ナントカな要素が(それだけではあり得ない水準で)自我興奮のトリガーとなってしまう仕組み」にあって、個別具体論としてその事象なり案件そのものじゃないって話なのです。
いやいや、確かに挙げられる事象やテーマに全く意味が無いって事は無いのですが(解決した方がベターな案件もあるでしょう)、
ちょっと考えてみてください
「ふたした周囲の一言(=この段階で深い意味は無い)で殺意」だとか、
「国家予算のプライマリーバランスが不安です」みたいな、
何故そうなっちゃうの?って部分こそが解決しない限り「次から次と挙げられるネタも無限にみつけられてしまう」ワケで、際限が無くなります。
(だからこそ、自分自身では解決に至らないと判断もされているのであり→なんとなく当人も薄々エンドレスな状況にある事も認識している。)
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