様々な状況が重なりまして、引越し”騒動”と相成った次第です、
(不動産業もやってますが個人的には無精なので引越しは大嫌いです)
これがまた賃貸契約上ネガティブな部分もひとつやふたつでな無いので「条件合えば即決」な勢いで話を進め(そこはプロ同士なので「内見前の申込みで全然OKだから」的な)、
これがまたイロイロありまして、、過労で死にそうなんだと(笑
まー、そこは(ネガティブばかりでは無く)、嘘かホントか子供時代図画工作に突出した評価も得ていたという話もあり「頼まれてもいないのに必要以上の事やってんじゃネーよ!」な状況からくる自業自得な部分も多数なのですが(結局ネガティブになってんじゃネーか)、
こういう状況になると「縁」の”くびき”というか、なんだかんだ現代で生活していることの時制も含めてどうにも自由にならない(殊更そこ自由に選択で来てもたいした意味も無い)ID的な基礎的帰属が存在する事がわかります。
ここ無限に所得があっても変化ありません、
不動産に関して都市部の更地なんて極めて限定的数量しかなく(この段階でもう無限に選べるとかあり得ない)、「海における自由」も海流に抗(あらがう)みたいな闘争はあり得ても、行き先に存在する小島や大陸を破壊してでも直進するなんて概念になると「海の自由」を越えちゃっていて「自由な政治選択とアナーキズムの混沌は違う」的パラドックスに行きつくのであり、この限定性も又現実の存在証明となるのだから、”優柔不断な普遍性”みたいな類の話です(それ以上不自由探しをしても意味の無いボーダーライン)。←音楽の自由を求めて音符も楽器も捨てると音楽の概念を否定するのと同じで本末転倒になる話も同じ(フリーJAZZのパラドックス)。
「自由が自由として成立するための『歩留り』のようなもの」でもあるのでしょう。
この基礎的限定性は自己嫌悪でも無い限り(縁としか説明言しようがないため)当事者悪い気もしないものであり、延長としてナショナリズムなどの概念にも行きつきます。
基礎的『共同幻想』と呼ぶ場合もありますが、幻想でも無く概念でも無いので正確には『共同幻想』では無い。「どこからどこまで」って線は個々人によって違うので(そこから先は当事者『自意識』も気にしていないならそこが『歩留り』線となり)比較的どうでもいい個性差発生の一部でもある。
■ここからが心理学ですが
この『歩留り』線が”見えず”、
何か自由に変更可能であるかのように(挑みかかる余地が無限にあるかのように)妙に固執している場合(どこやらの住所のこういう建物の所有者でこの国籍の何時代の人間じゃなければ気が済まないとか)、それは現実が偏向しているのだから『偏執』となる。
ありますよね?基礎的帰属をやれあーだったらこーだったらと何かの言い訳にする人(才能がないからとかもこの仲間でしょう)、
皮肉な事に基礎的帰属にまで抗(あらがう)って言うか(本筋無意味になるボーダーラインを越えちゃって)話がパラドックスになっちゃっている場合、本来抗(あらがう)べきポイントがこの言い訳でやる事が無い話にまとめられてしまい強迫性の証明となる。
てことは?
『歩留り』論というのは存外に重要な話なのかも知れない。
但し、前段説明のとおりで通常ここは”優柔不断で比較的どうでもいい線引き”なので、殊更にその「無意味な帰属性」を深刻に考えても意味が無い。
ここって「メンタル問題などというものにも明解な基準など無い」(あくまでも当事者の”問題意識の有無”によって決まる)話に共通しているのかも知れない。
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ここの部分はトンでも無くめんどくさい話になるので、今回はここまで。
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