物理学において「時間など無い論」が主流であるとのお題もあることですから、自我に認知されている”今”ってな〜概念を考えてみると「グラフなんかにおける”ここ”と示した座標点」みたいなものでしょうか。その関数グラフみたいなものの係数など数値的条件に変化が無ければ未来は既に線上の先で決まっている事になりますが、なに係数かに係数が変化すれば過去を含めて未来の曲線も変化します。
SF小説における”世界線”やら”パラレルワールド”じゃあありませんけれど、少なからず脳内で行われているシミュレーションも似たようなことやってます。
「もし何だったなら」みたいな想像です。
■さて心理学がテーマにすべきことは、
「もし何だったなら」みたいな想像においてもその人生の違いから経年変化で全く別人格になってしまっている自己の存在を何故に同一人物であると違和感なく感じられるのかって部分です(笑
随分都合のいい生物だと思いますが、
不思議な事に人間の自我は自分がもしかしたら全く(自我構造上)別人格か?に至る想像をしていてもそれが自分である事に疑いが無い。
だとするなら、自己を認定している体感と人生経験値や獲得される人格ってのは”別物”なのだろうか。それは「『自意識マター』とは何か?」っ問いでもあります。
■確かに、第何十回目だかの競馬レース皐月賞において馬券を買う時、勝った場合の自分と負けた場合の自分を想像する時「えーあんな事になってちゃったら自分が自分で無くなり自己が消滅してしまうかもしれない」などという恐怖を感じる人はほとんどいません。
(パチ屋の景色見てもそんな不安を抱えて動揺する人物をついぞ見たことありませんし。)
金持ちになった結果、様々な事が起きてって状況はあるでしょうが、それこそ以下の論議です。
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しかし、しかしですよ、
就職であるとかですね、進学時における理系か文系化であるとか、ファッションにおける何色がどうこうどうこうなんて時には「そんな選択は自分じゃない」とかなり明解なアレがありますよね(ええ、母親が買ってきた洋服を前にクレーム付ける子供などで頻繁に目にすることもできます)。
さ〜て、この違いは何だ?
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