市井の人の知識や評論水準の”想定外の高さ”、そこに本当の意味の(リテラシーがどうこうでは無く)『単独者』の台頭って姿を現実のものとして見ることができます。
動画レビューで一番驚いたのが、某アマチュアボディービルダーさんの「試合に負けた脱力で特別企画でゴジラの解説を」みたいな評論で、それがすこぶる内容がいい。
昨今の私は映画館で映画を観ようって体力がもう完全に枯渇しておりまして(思春期の頃嫌ってほど観ましたから十分です)、実際ゴジラ観るのははDVDになってからかと思いますが、数々のレビューを見て読んで、おおよそ脳内では一回ゴジラ観た状態になっております(伊達に心理学やっていないので脳内シミュは大得意ですから)。
今回のゴジラは「右派には右派の、左派には左派の見方で楽しめる」という卓越したシナリオを特徴としており、『共同幻想』崩壊以降大ヒットコンテンツという概念が構造的に不可能となった現代において3.11災害モチーフによる半ば強制的に不特定多数の人が共通体験する事案を使うことで(だから見た人の感想が無数に分岐している)エンタメ性と高収益を両立させた稀有な作品です。
10年いや20年に一度の金字塔的評価も目立ちますが、その理由は「そんな頻繁に大災害も無いから」という連想もあるのだろうと(そこまでリアルな災害体験として映画化に成功した)、そんな風に思います。
その結果、いかにも左翼で無職っぽいおっさんがチェーンスモークしながら1時間以上熱く語るみたいなレビュー動画があったり、報道番組司会者の方が「興奮で昨日眠れませんでした語りたくてしょうがない映画」と絶賛するなど、
『媒体としての映画』のような構造が『シン・ゴジラ』に成立していた。
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■ここが何を表しているのか。
『共同幻想』リミッター無く「俺はこう思うんだ」的な欲求が(シン・ゴジラをリトマス試験紙として)「もう我慢できない私もカミングアウトだ」のように噴出している。
この様子こそ『単独者』時代の到来を告げるものであり(評論としてしっかり内容のあるものが次から次無数に湧いて出てくる)、
古くから「ひとりで読むスタイルが一般的な書籍や音楽、意図的に上映時暗くなる映画は『単独者』的仮想空間を醸成するというか刺激する媒体」でした。
昭和の思春期『反抗期』などでは文系学生はそりゃ読むわ読むわ、あるいはそこからやれ演劇などへ派生してな〜んて格好で自我の底を開拓するかのように仮想反抗期を過ごしたもので、
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履歴書趣味欄のトップスリー「読書、音楽鑑賞、映画鑑賞」ってのは、仮想単独者状態(プライバシー全開時)空間を持ってくる媒体の定番だったのであり、
■”マニアの論議”に見受けられるように、同じコンテンツで語れるのは小社会に限定されました。ところが『シン・ゴジラ』は大ヒットしており、エンタメとして誰に対しても勧めやすい。半ば自動的に「マニア論議を広範に語れる」という構図が成立するため、
「にわか『単独者』が強烈な風速で増加した」と考えられます。
勿論、その体験は『単独者』心を刺激したでしょうから、『シン・ゴジラ』を契機として日本の言論空間そのものが構造的にアレする可能性すらあるのではないかと思います。
(それが経験したことのない面白さとして認識されているのではないか。)
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