動物的限界、
「いくら腹ペコでもお米を1トン食べることはできない」
お金は無限大に貯金できますが、
その使い道って言ったって
「100億超すようなプライベートジェットが仮にあっても、民間航空機のちょいといい席との違いがあるだろうかって(100億の差を体感できる感覚器官が無い)」
「隣の芝生」だの「友人の細君がどうこう」などなどありますが、そもそも1日は24時間しかいないのだし、自分を分身の術により倍増することもできない。
原理原則の欲求として「衣食住」がある程度の水準にあれば、仮にそこに金額的な大きな差異があってもその差異を認識するためには「趣味性などの専門知識」が無ければそれを体感できない。
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この体感を『共同幻想』社会はブランド権威主義で随分と楽に提供することに成功しますが(評判の店現象も同じですね)、その『共同幻想』が絶賛崩壊中です。
■逆説的に考えるなら
そもそもの趣味性などの専門知識が無ければ(基本的水準越えの価値論は)何も始まらない。
さて、高い趣味性の知識がある場合何にもまして資金力によるアレが必要となるかと言えば、どちらか言えばその逆パターンも増える(お題目的ブランド主義などがほぼ無意味となるため)。
自作・安価な改造・自分の趣味時間コスト投入労働力は事実上無限大など、
趣味に投入する自分の投入労働力は睡眠時間を例外に「人類平等(全員1日は24時間)」であり、
「趣味性が高度になればなるほど、自由になる自分の時間の価値が倍々ゲームで増加する」
究極「自由な時間がどれだけあるのか?」←これが価値論的にも人間個人が獲得できる利得の最大値を定義しており、
日常生活における「衣食住」ある程度の水準論の話になれば、「今日はカレー食べたくないのだが」と思っていても、実際カレーを食べてしまえばお腹一杯になってしまうのも事実(食欲は貯蓄できない)。
■たかが人間の人生でありまして(ネコには洋服も美容師もいらない論じゃありませんが)、
単一の人生で人間を超える進化を可能とするなんてのは考えるまでもなく不可能です(それに近い錯覚をモチベーションにぐいぐい行くアスリートの世界もありますが)。
この世に大騒ぎするようなことはほとんど無いのであり(価値論やるならその中で最も重要なのは自分の自由な時間となるのだし)、
岸田心理学的原則論となる「この世にどうでもよくないことなど無い論」ってのは、殊更に心理学や哲学的にひねって導き出された話では無く、そのまんまにそうでしかないからです。
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