ライトのベルなどにおいて過去の「異世界に飛ばされ系ジャンル」(ほとんどこの業界では無料のweb小説などから後に出版となるパターンも多いため漫画界同様にパクリに関しては寛容で設定などの転用はリスペクトやオマージュとしてバリバリにOK)、
当初は何かの原因でゲームの世界などから帰ってこれなくなってしまい、その原因を探るのも主題ながら「最大の見せ場は現実世界に帰ってくるところ」つー筋書きだった筈なんですが、
「唐突に異世界」だけでなく「タイムリープ系」においても、
昨今現実世界に帰ってくるところは瑣末な問題でどうでもいいらしいです(笑
小説・映画・演劇・アニメに限らず、創作物はなんだかんだと登場人物の視点で語られるものですから(ストーリーテラー的枠役含む)、ドラマ性の無い日常を小津安的に描くほうが例外なので、総じてエンタメジャンルとして何も起きない日常を描いても仕方が無いワケですから、いっそ設定を異世界にしてしまうという禁じ手を用いても物語が面白ければいいのであります。
さて、関連する話に過去記事で「家族が登場しない・仕事をしている主人公が滅多に登場しない」などの分析もやってきましたが、今回は「異世界から帰ってこなくてもいいじゃないか」的な部分を考えてみようと、こういうワケです。
「かくかくしかじかの設定で面白い話」にはその時代の自我がなんとなく思う願望や現実世界への希望みたいなものが現れるのでありまして(そこに不一致があれば面白くないってことになりますから)、所謂「時代の求めるエンタメ需要」を知る手がかりになります。
(※昭和にスポーツ根性ものが流行したとか、所謂ロボット漫画には男の子のマチズモ的投影もあったのだろうとか、昭和ヒルメロ・エロドラマからレディコミの台頭へだとか腐女子の背景やら何気に重要なテーマかなと。)
■トンデモ宇宙論に「世界はプログラムされたシミュレーションに過ぎないのではないか説」なんてのもあるように、現実の客観性などというものに取り立てて実感などありません。
極論すると「寝て起きたら目が醒める保証」など誰にも無いのでありますが、そこは人間に関わらず経験的に視野外・想定外となっているだけで確率的に絶対が保証されるものなどこの世にありません。
さらに「明日目が醒めた世界は昨日と同じか」という検証も誰にもできないっちゃ〜確かにそうです。「唐突に異世界に飛ばされる設定」なんて話も、昭和における「異世界並みの秘境旅行記」と展開的には違いが無いって言えば違いは無いんですよね(笑
ここんところを考える上で重要なのは、
話のトンデモ方向性では”ありません”。
むしろ重要なのは物語としてのリアリティー(現実感)の方です。
たとえば異世界ものでも、飛んだ先の異世界の政治や文化の設定に無理があり過ぎると読者は面白いと感じません(感情移入ができないためです)。何気に緻密に設定されてこそ異世界ものは成立する。
一見空想ファンタジーとしてくくられてるのかも知れませんが(SFなんかもそうであるように)、あたるあたらないの鍵は”リアリティー”で決まります。
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