過去記事に空想と妄想の違いみたいなの書いたことありますが、
現実って言ってもですね、これ知覚判断しているのは脳でありロジカル構造の自我ですから「一段解釈されたもの」に過ぎません。
といってもそれが人類ヒト科の観察・体感する現実なのであり、人類ヒト科がトンボが感じる現実にあわせなくちゃいけない事情などありません。
リアルとしての現実と生物が知覚する現実ギャップの典型例に”色”とかもありますが(見ているのは”色”じゃなくて反射光だよみたいな)、まー自我を持つ人類の現実は相当の幅があります。
詩歌に謳われるワビサビなんて代物も加えるならば、趣味性や芸術表現や比喩表現含め「文学の幅ほど現実はある」のであり、「現実は小説よりなんとやら」なんて話もありますが「小説で表現可能な幅を自我自体が持っている」のでありまして、
たとえば地球上に巨人が暮らしているのであれば、人類が体感する”大災害”も「小さな出来事に過ぎない」のでありまして、物事は常に相対的なものです。
人類ヒト科が映画やアニメやドラマを観る時に「効果音や・BGMの存在をリアルな表現と感じる矛盾」なども典型的ですが(元ネタはオペラなどの歌劇かと思います)、現実社会にいきなり背景音楽が流れる事は間違ってもありませんが、自ら鼻歌や自家用車で運転中に再生された音楽に合わせて歌っちゃう人がいるように、もうね脳内では音楽かかっている状態だってあるのです。
(典型例のひとつは昭和のスポーツ的に激しいトレーニング時に脳内でロッキーのテーマが流れちゃうだとか。)
「それは現実なのか」なんて話を紋切り型に考えてしまうと、「ヘアーカットだメイクだファッションだ」などなど演劇的というか演出的に導入されているもの多数で、そのバリエーションや可変性って部分は下手すると”素の現実”を容易に超えちゃいます。
(それを超える事があり得ないのであれば、この世に演劇は成立しません。)
さすがに「どうにでもなる」とは言えませんが、
少なくとも「権威性『共同幻想』な人」以外であれば可変性というかその自由度はとても高くなります(「権威性『共同幻想』な人」のTPOは好き好んでの制限なのでそれを不自由と解釈するのも間違いですが)。
先進国化の方向性を『単独者化』『共同幻想の確信犯的再選択化』として見た場合、自動的に「現実の選択性」は高くなる傾向にあり(そりゃ封建時代の身分制度などと比較すれば段違い)、
現代社会の現実は「後天的であり選択的なものである」と言うことも可能です。
すっごく単純化してしまうと「気分転換に音楽でもかけちゃおうか」と言った瞬間に現実は変化するのですから。
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