前提として以下過去記事も関連事項参照
戦争における発砲率とかいう話
http://kagewari.seesaa.net/article/421123514.html
■「平和的共存」←これが成功するためには経済学的成長などの根拠が不可欠です。
何故なら基本的に紛争の始まりは「食えないから」に尽きるからです。
権力の側から言えば「食わせられない(=反乱により権力を保持できなくなる)」、
先進国が所謂総力戦の全面戦争など以降あり得なくなった原因は「先進国において食えないなんて事が(経済政策的に)あり得ないから」です。
諸外国、とりわけ中東などに見られる紛争は違っているのでは?というご意見の方もいらっしゃるかと思いますが、所謂「モスリムにおける世俗主義」というのも、キリスト教における(特に米国)「カルヴァン主義」についても、文明化・先進国化に至る経済政策と宗教的戒律との間にどうやって整合性を持たせるかって話なのであり(ご存知のように文明化は=確実に将来『共同幻想』を崩壊させるため)『共同幻想』保守派にとっては苦い薬に違いありません。
(考えるまでも無く文明化を否定すれば生産性が向上する可能性は皆無ですから、「食えない事を受容するか、戦端を開くか」しか積極的な拡張政策は無く、そのいずれも「平和的共存」とは言えない。)
しかし、なんだかんだと「平和的共存」の可能性は「自国生産や交易で平和的に食えるのか」に尽きるのですから大きな方向性は「いかに文明化と実効性のある経済政策を導入できるか」、宗教的伝統のある国家においても激しい格闘や論争が繰り広げられてきた訳です。
その反対に「戦争の可能性」はどっかの国が食えなくなる可能性となります(=伝統保守系『共同幻想』を原理主義的なまま温存可能)。
東アジアにおいて明らかに問題になりそうなのはロシア・中国・朝鮮半島です。
■東西冷戦時代になんだかんだ結果論としての平和的な共存が時折見えたのは、ひとえに東側陣営が秘密警察などで反論を押さえ込んでいたことと(国内で平和的共存とは言えない状態をやらかしてくれた)、西側陣営にはケインズ主義という経済政策が有効だったからです。
所謂パワーポリティクス的に覇権を握る国家の経済状況がトンデモな余裕を持てば、周辺諸国や属国に対して大盤振る舞いで「食える保障」を連発ですますから(戦後のアメリカです)、それは「平和的共存」となります。
言い方変えればダントツで経済的成長を(他国と貿易戦争など発生させず成功)維持可能であれば、周辺諸国に対しても平和の分配が可能になります。
マクロとミクロの中間的分析として、
■「業界内での平和的共存」を考えると、そのまんま国家間紛争のシミュレーションになります。
たとえば、高度経済成長時代で車のメーカーが複数共存可能な時代には、たとえメーカー間の競争が激しくても「負けた側が食えなくなることは無い」ため、せいぜいが「社の名誉をかけた戦い」となるだけで、過当競争になったり(EUみたいに)業界大再編成なんて必要もありません(その代わりこの時代の日本はその後日米貿易摩擦になったけれど)。
上記の場合は、個性的な会社が競争に少々負けたとしても大きな傷を負わない「名誉をかけた戦い」にいそしむだけです。
しかし、低成長時代となりグローバリズムの中で「生きるか死ぬかの激烈な競争」となれば、食えなくなるかもしれない圧力かかりますから、その競争も洒落にならないものとなり「負ければ倒産」も覚悟する事になります。←さならが戦争です。
(日米貿易摩擦の時に、米国が日本に内需拡大を求めたのはとても合理的な話だった。)
中東を巡るここ100年近い争いも、世界経済の命脈でもあるエネルギーが関係しているからで、俯瞰で見れば「世界的スケールの中で食えるのか食えなくなるのか」的な視点の中、あーでもないこーでもないとなってきたんです。
(ヘゲモニーという点で支配者となるための富の独占競争も事の発端は「生命線となる何かがあっての話」ですからね。)
実に単純な話で、
世界的に好景気の間は地域紛争も起き難く、戦争や紛争の可能性が高まるのは「不況」を発端とします(WW2だって発端は世界恐慌です)。
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