2015年08月17日

映画はオワコンになるのだろうか

某映画でトムクルーズ氏が「登場する戦闘機がもしCGなら俺はやらない」と言ったとか言わないとか。
そのお気持ちよくわかります。
名優の方々、セットも無いCG用の無味乾燥なスタジオで大変無理の多い演技されていると思う昨今、こりゃ実写なんだろうかと思いますわね。
アニメにおいてもCG出てくると「手書きでやれよ」みたいな苦情出てくる始末で(CG使いの表現って世界もあるそうで今後変化するかもですが)、そりゃCG屋さんから言えば「元からフィクションでしょ」と言われそうですけれど、映画の価値ってドキュメンタリー以外オワコン化するかもです。
一番意味不明なのが、アニメの実写化を「セットはほとんどCGです」ってのですね。こうなっちゃうとアニメの方が実写で、CG使いまくりの実写映画の方が「アニメを地でいってみた」色物(或いはパロディ)みたいな事になります。
所謂TV業界が延びた結果(まだまだ太陽にほえろなんかはフィルムで撮影していた)、フィルム撮影する映像人が激減し、照明の当て方などの技術が喪失したなんて話を聞いた事もあります。
(その結果昨今の映画は陰影が無く何から何まで明るいTVみたいな表現なんでしょう。映画館暗くしている意味ないだろうってねww)

ほどなく音楽業界に起きたように、安価なCG製作ソフトが流通し「個人でも1時間ぐらいの映像作品をフルCGで撮れちゃう」なんて時代がくるのでしょう。
そうなっちゃうと、どうなんでしょう(笑
巨匠という存在も(昭和の大歌手が消えるように)消えるのでは無いかと思います。
私も若い頃は「やれキューブリックだ、スコセッシだ、リドリースコットだとか」中身知らなくても監督買いで観るってな事もありましたが遠い昔話となりました。
(古い人間なんで、今でも生涯一番カッコいい映画はマックイーンの『ブリット』だと思っております。)
実際ニコ動やユーチューバーとも呼ばれる謎の方々など、なんだかんだ個人で映像作家として食っている方も多数派生しており、その萌芽は始まってます(確かにこっち方面の表現は”実写ならでは”といえるのかも)。

思うんですよ「そもそもフィクションってなんだろうか」と。
映画って言えば随分高尚な芸術でしたけど、始まりはオペラや歌舞伎などのスケール大きな舞台芸能でしょう(更にその前は神殿の前のプロパガンダ的な儀式など)。
そこには認知の自主選択を刺激する側面や効果はあったんですよね(権威性の選択肢を示すみたいな)。名作のジーンハックマン主演『ポセイドンアドベンチャー』も明快な米国式キリスト教主義みたいなものを提示していたし、黒澤の七人の侍も目的はエンタメですが、その効果的背景として「民衆蜂起」みたいなリバータリアニズムみたいなものを示唆してました。
60年代以降のフィルムノワールなんちゃらやベトナム反戦の影響受けてからは『単独者』系の話が全盛となり、右派脚本のランボーでさえ結果論だと思いますが『単独者』的な表現を模索する作品となってしまいました(多分ベトナム戦争モチーフだと右派でも左派でも構造論的にそういう話になりやすいのでしょう)。
高倉健もヤクザの仁義の世界から→『野生の証明』における『単独者』ですから。
対比として、大げさなBGM付きの大スケール神話(『共同幻想』)が崩壊してくると、エンタメの方向性も小スケール化によるリアリズム頼みとなっていくのじゃないかしらと。
ななだかんだ「大作映画は時代劇かSFなどしかマッチしなくなってきた」といえますし、
シナリオのネタ切れこじらせると「CGを見せるためだけの演目」に落ちてしまった感もあります。

私は文壇系の動きにはさっぱりですが、
似たような側面あるんじゃないですか?
(事実ラノベであったり自主制作web小説発のヒットなんて珍しくない話です。)

小スケールな芸術表現って言えば「詩歌」のようなものかもですが、
戦後の大スケールなエンタメに押され消えつつあった「全く予算の必要無い市井な芸術表現」みたいなものが、現代におけるリアリズムのとっかかりになっているのかも知れません。
時に音楽の世界で、素人ばかりが作曲するようになれば「いかんせん技術的限界があります」。
しかし、コード進行や譜面上の取り決めなど、57577みたいな定型化ジャンルとすれば誰でもできる(ミニマル化って言えばいいのかな)、ポップアートのその先にと申しましょうか、どこかしこに「意図的な小スケール化」の方向性出てくるのじゃなかろうかと思います。
(映画における時代劇じゃないけれど、大スケールのオーケストラはクラシックという収まり方してますし。)

神話的『共同幻想』権威性認知は崩壊していきますが、ミニマル化やシンプル化って(概念としてはルールに近いものなので”誇大化を否定する最小単位の共同幻想”のようなモデルでしょうか)”言語における文法のようなもの”なので、これが多様化するなら相互理解失うほどの分散化ってプロセスに至る可能性もあるでしょう(”多コンテンツ過ぎ”だとか”棲み分け過ぎ”みたいな)。
無数に小規模スポーツジャンルができてどれだけの種が存在するのやらわからなくなるだとか、
バベルの塔の何とやらじゃないですが、

この分散を補完するとなれば、
やぱ「(多様化を超える)分散化とネットワーク」みたいなところが鍵になるんでしょうか。
文明化と現代社会を表すなんとかに「近くて遠い」なんてのありましたが、
現代社会ってものは「遠いがなんか近い(近いから遠くてよい)」を模索していくのかもです。
(私はそれをカオス化だとは思っていないのです。)
(なんだかんだ「文明化という強い共通項」がありますからね。)
かといって、分散化されたセクターが妙に濃密になって秘密結社みたいなになれば”違う”だろうし(笑
「わびさび」じゃないですけれど、「遠いがなんか近いなんとやら」と言いますか、
神話性や権威性や誇大性を捨てて行くのですから、芸術含めた表現って世界も「微妙な?」「何というのではなしの?」自意識の観測性能の高さに期待する表現が重視され(無理に訴えかけることも無く)、あんまり予算もいらないよって事になるのかもです。
(そこに至ってフリーエコノミーにも繋がるのかも、)


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
コメント欄に問題となった同趣旨の投稿が続いたため、暫くの期間ブログのコメント欄トラックバックを閉鎖します。閲覧されている方には不自由となる部分もあるかと思いますがご了承ください。(再開までの期間は未定です)
詳しい経緯は下記リンク及びサイドバーコメントリンク表示の説明参照
コメント欄の削除があった件(関係障害について)
http://kagewari.seesaa.net/article/402054291.html


■私のミスで時折記事のコメント欄などが承認制になっていたりしますが(或いは昔の記事など)、現在のブログ運営方針が「コメント欄トラックバックの閉鎖」なので、仮に投稿があっても内容に関わらずもれなく削除となりますので宜しくお願いします。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
posted by kagewari at 04:34 | 精神分析時事放談 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする


Amazon 2
所謂臨床系の言うところの行動療法ってほど堅い話ではありませんが期待感あるアプローチだと思います
自我と時間』参照




comments他

・コメント欄は『公開掲示板』同様に原則削除禁止です
(基本的に削除依頼には応じられません、削除依頼は投稿禁止ワードとなってます)

・SPAM対策として一部キャリアからの投稿がIP規制の対象となってます
(同規制キャリアから登録抜けによる投稿がある場合、投稿は自動削除されると同時に規制IPに追加登録されます)



現在コメント欄閉鎖中 (2014.7.26〜)



LINK
タグクラウド