(勿論私は無神論者ですが、文化として伝統宗教などの存在は認めるところです。更に言えばオカルト的なものについても、史的唯物論で説明できないものはこの世に実存すらしていないみたいな発想もありませんので、わからないものが様々あるという点において否定するものではありません。)
神の概念云々の論議は「パスカルの賭け」に書いたとおりですが、
『賭けと夢』
http://kagewari.seesaa.net/article/45624219.html
神性や神の概念と所謂宗教というものは別物だと考えています。
この辺は伝統宗教の中でもかなり強力な存在であるキリスト教でお馴染みですが、新約聖書出版社というか音頭とって世界的普及のキッカケを作ったのはお馴染み「ローマ皇帝コンスタンティヌス」です。所謂その辺から王権神授説に至る政治的『共同幻想』と宗教みたいな図式が生まれるワケでありますが、
何はともあれ、フロイド心理学は特に欧州におきまして「禁忌」と申しましょうか(フロイド先生がユダヤ人という部分もあるのでしょうが)、「出来の悪い弟子のユングがナチスに協力しましたね」なところの方が有名だったり、ぶっちゃけ目の敵にされている側面もあります。
(お国のオーストリアでは「フロイド誰ですかそれ状態だ」なんて話を耳にすることもあります。)
歴史的経緯からしてもフロイド先生時代の相談事例におけるコンプレックスには欧州特有の宗教的権威性と超自我(自我内で自意識の上位に存在する憲法的な倫理道徳などの重要事項的ロジック)みたいな関連性抜きに語れないところもあったので、「宗教悪玉論を展開しとんのかい」みたいな色眼鏡で見られてもいたのであります。
しかし、マルクスの史的唯物論的批判(ガチのキリスト教反動系の思想です)みたいな話はフロイド心理学にはありませんし、症状の関連の中文化人類学的側面として宗教が登場するだけでありまして、個々人の信教の自由を云々するつもりも取り立ててコメントする意味も無いのであります。
(※リビドーを狭義の性欲と勘違いされてしまったのも宗教界からお叱り受けましたが、勿論そういう意味では無くリビドーは広義の性欲の意(哺乳類特有の生存全体に関わるモチベーション)であります。)
※心理学固有の問題ってか、、、いえいえい問題では無いと思いますが「分析者がトンデモなレベルの第三者であるという立ち居地」から、心理学やっている人間は構造論的に総じて無宗教になりますので、ガチで宗教やっている人から批判されると「困ったな〜と苦笑するしかない」な弱点があるのは確かかも知れません。
繰り返し書いておきますが、
●心理学とて勿論の事ですが「文化として伝統宗教などの存在」は認めるところです
そして、現実世界においてそれは運用上『共同幻想』に関連付けられており(てか典型的『共同幻想』のひとつ)、心理学では無く社会学や文化人類学的に疑う余地無くそうなります。
社会学的に、多数により社会化された概念は=『共同幻想』なので(伝統宗教では無く個人がひとりだけで個人的宗教を信じている場合は例外となる)、伝統宗教のカテゴリーはその戒律や教義の共有において『共同幻想』に分類されるのであります。
(細かい事言うと、宗教者の中でも内部において”神学”のような哲学系をテーマにする場合は「対峙する形式や共有の社会性の意味が違ってくる」ため例外事項になってきます。)
■伝統宗教と現代社会を考えた場合となると、ぶっちゃけ「葬式と墓をどうするの」ってベタな需要に対して非宗教セクターは積極的な答えを持っておらず、結婚式などもそうですが「特定儀式などを司る産業」としての側面もありますので、先進国において宗教が”産業”として成り立たなくなった時、ひとつの転換点を迎える気もしますが、そこはそれ葬儀など式典というか儀式的なものを専業にしている他産業などありませんから、宗教系の関連法人などが「それらしくそつなくこうなってます」なメニューとともに”宗教的サービス”を提供するなんて時代になっていくのでしょう。
(果たしてどんな形で残っていくのか「それこそ神のみぞ知る」って話です。)
→続きを読む
タグ:共同幻想