時にメンタル問題の背景が「性愛がらみの承認欲求」である事が少なくない(男子の場合は過去に出世願望的な社会的地位にからむ話メインの時代もあったが)、メンタル問題局面において「やれ普通はこうだ、一般の人はこんなにこうだ、私だけがかくかくしかじかの被害者で」のような自家発電的な不快再生産の状況が展開する場合も典型例のひとつ。
この設定の場合「所謂『共同幻想』社会適応者」があたかも勝者であり幸福を満喫している前提が必要となる(でなければ”そうではない自分”を被害者認定できないからだ)。
故に、
メンタル問題の論議の中心がなんだかんだ「どうしたら『共同幻想』社会に適応できることで勝者となり幸福を満喫できますか?」みたいな倒錯しな内容にもなりがちで、トンチンカンな『共同幻想』適応一部外野席がこれまた「いっしょに頑張ろうね」なんて見事な合の手を打つなんてことになれば、、もうね状況から抜け出す事は大変厳しくなります。←ちょっと収拾付かないみたいな。
■勿論この状況で重要なのは(それこそ『共同幻想』社会適応している当事者たちの口癖がそうであるように)「そもそも『共同幻想』適応というのは”苦労の連続”であり、どこにもやれ勝者だとか幸福を満喫などの世界は存在しない」事を知る事に始まる。
(『共同幻想』社会適応者こそ誰よりも「休日が大好き」なのだから。更に言えば彼らの実存証明はその”苦労”により証明されるのだし。)
●ここが強迫心理でトンデモとなる背景は、幼児期などの権威性認知が誇大化したまま反抗期によりリサイズされず、幻想としてそのままのスケールで残るためで→その後の展開先社会に「凄く上位の存在」のようなイメージが無意識に投影されてしまうため話がややこやしくなるのです。
↓
桶屋が儲かる話のように、どこにも自意識に「『共同幻想』社会適応者こそが勝者であり幸福を満喫するのである」なんて信念も・思いも・想いも”無い”のに関わらず、自分の悩みを説明しているさなか無意識に「『共同幻想』社会適応者」はあたかも勝者であり幸福を満喫している」設定を顔真っ赤に主張している自分がいたりするって展開にもなるのです。
(自我がその時置かれている設定上の力関係に”強迫”される言動を「あたかも自分の感情」のように誤認・錯覚してしまう。←「勘違いして詐欺的営業会社の社員になってしまった時のジレンマ」みたいに設定があり得ない感情的興奮を演出してしまう、みたいな。)
■さて、このような状況で「いかに『共同幻想』適応社会とはどんなものか」現実論を説明し、不快現象のバランスを減衰させようと考える場合(前述のこの世に存在しない「勝者であり幸福を満喫している人」設定を壊す必要があるのだから)、
いくら「いえいえい世間の人全般が何の苦労も無く幸福な生活を謳歌しているだとかそもそも『共同幻想』論的にあり得ない」事をどれだけ説明しても、必殺「雑誌にこんなことが書いてありました」「TVドラマのなんとかのように」「身近な人の話ですが」なんて無茶な根拠で前述の『自家発電的な不快再生産の状況』が”自我防衛”されてしまう事があります。←わかりやすく言うと「聞く耳持たず」状態。
●勿論そういう進行になった場合(いくら説明しても聞き手の論理性が破綻しているので)、統計の数字なども出すんですが、権威性認知をバックグラウンドにする『共同幻想(メンタル問題の場合強迫心理系認知)』にとって統計DATAはそこそこの説得力・到達力を持ちます。
※そもそも強迫設定の破壊は心理学的対応の”導入部分”であって、本題は「人間は何がしかの権威による承認などそもそも必要が無い・自己の実存と関係が無い」って原則論と併行し、発端となる幼児期などの『権威性幻想のネタバレ崩壊』に話を進めるところですが、リハビリ過程のリバウンドで今回のような”導入部分”論議が再燃することも少なく無いので抑えておくべき論議です。
凄くベタな表現なんですけれど、
「それは法律に書いてあるんですか!」と興奮する状況に対して統計DATAとかってのは”公(おおやけ)”のものなので(権威性フラグが立つためカウンター効果がある)、
「かくかくしかじか民法何条によるとなにやかんやで、なんとか訴訟の判例ではたしかに、、」と返すような説得力を持つワケです。
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2015年06月29日
2015年06月25日
数字として出てきている欧米における『共同幻想』崩壊
「イギリスやフランスで若者のキリスト教離れが深刻なレベルに」海外の反応
http://blog.livedoor.jp/drazuli/archives/6764470.html
こちらはアメリカの無神論者増加のDATA英文記事です
America’s Changing Religious Landscape
http://www.pewforum.org/2015/05/12/americas-changing-religious-landscape/
海外の状況に関しては現地で体感したものではありませんから、あくまでも情報ですが、海外の反応系翻訳ブログなどを見ていると「思いのほか海外ネット民は宗教に傾倒する習俗を嫌厭しているログ」を散見します。その傾向は前述のとおりで実数にも現れており、時に欧米でイスラム教徒との対立を目にしたりしますけれどそこにはキリスト教VSイスラム教みたいな図式に思われがちですが「多分違うのだろう」と思うのです。
前述DATAにあるように現代欧米ではかなり「脱キリスト教」が潜在的に進んでおり、ともすれば敬虔なイスラム教徒の姿がそのまんまカルト的にに見えちゃっているのではなかろうかと考えるのです。
そもそも宗教離脱派の彼ら自身「アブラハムの宗教(兄弟関係にあるユダヤ教・キリスト教・イスラム教のこと)ダメ出し」の流れのなかで先進各国で「脱キリスト教」も進んでいる昨今、キリスト教保守派だけが突出して(所謂右傾化のように)対立軸になっているとは言い切れないでしょう。
■確かに先日のウクライナのデモという名の武装クーデターの主力はロシア曰くネオナチとも呼ばれるウクライナ保守派ですし、ドイツではかなり昔からネオナチによるトルコ人街への襲撃みたいな話を聞きますけれどネット世論における対立というか欧州にとっては移民問題ですか、
ここって日本のネトウヨ現象に似て「マスコミのPCが(差別表現などの自主規制:PCポリティカルコレクト)欺瞞だいい加減にしろ」みたいな話も相当強いんですよ。
ある意味欧州の移民問題にも”左巻き知識人”的な結合があるため、政治的にも左翼陣営は(ここ米国民主党もそうですが)移民問題に寛容ですから(国内的に昨今これがイスラム教移民問題となりつつある)、見方変えると「対立軸がすれ違っている」ように思います。
結果論として政治勢力の図式は(上記の関係があるものだから)「どうしたって左翼陣営の敗退」になるため、なんだかんだと右傾化みたいなレッテルを貼られもするんですが、
日本の政治状況においてこの辺の話、実情は全然違うところありますが例にあげると「勢いがあったころの大阪維新の台頭の雰囲気、英国におけるスコットランド独立党躍進」ちょっと似ていると感じるんですよね。
(推測ですが「現在のギリシャの反EUな動向」も同じ線上にある現象かも。)
(大阪維新が台頭した時には「名古屋減税」や「新党大地」など他の地域政党も伸びてます。先日の沖縄知事選も自民系+共産みたいなトンデモ合体ありましたが事実上ここも「沖縄本土党」みたいなニュアンスで理解するべきかと。)
どうなんでしょ、
■『共同幻想』崩壊の中、右傾化みたいな政治状況の”中身”ってかなり違うのじゃないかと。
これは日本のネトウヨ論でもあるのですが、彼らは所謂右翼とは違いますからって「そもそも旧来の日本の右翼は親韓だから(フ○TVがそうだったように)ネトウヨの嫌韓とは全く違うのであり、それを右傾化とひとからげにして見るのは全く正確じゃありません。
現代社会において『共同幻想』は崩壊しますが、国家や出生地や言語など「”だいたい普遍的”な帰属性アイデンティファイ」はどうしたって残ります(自分の姿形に準じるものですし)。
しかし「”だいたい普遍的”な帰属性アイデンティファイ」には神話性や幻想性が無いのでそこに個人が依存する事はありません(反動形成があれば別だけど)。
●限りなく「共通認識」であり『共同幻想』と呼べないかも?な水準になります。
「”だいたい普遍的”な帰属性アイデンティファイ」ってのは「ただそれだけのこと」なんですが、これに対して左翼陣営は「あからさまに『共同幻想』的な世界から移民問題云々」に組みしているワケで、「ただそれだけのこと陣営」から見ると「そんな左翼陣営の有様はあからさまな謀略やプロパガンダに見える」のですよ。
更にネットに多いメディアリテラシー論も加算されて、左翼陣営の言論は強い批判にさらされます。
↑
ネトウヨが保守系右翼という側面が無いとは言いませんが、わかりやすい構図は(前述の各国の選挙結果がそうであるように)「強く批判されている側がそんな左翼陣営だから」じゃないのかと、
相対的に「もっぱら左翼が批判対称なのでネトウヨなんて蔑称で右翼認定されてしまう」ように思うのですよ。
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http://blog.livedoor.jp/drazuli/archives/6764470.html
こちらはアメリカの無神論者増加のDATA英文記事です
America’s Changing Religious Landscape
http://www.pewforum.org/2015/05/12/americas-changing-religious-landscape/
海外の状況に関しては現地で体感したものではありませんから、あくまでも情報ですが、海外の反応系翻訳ブログなどを見ていると「思いのほか海外ネット民は宗教に傾倒する習俗を嫌厭しているログ」を散見します。その傾向は前述のとおりで実数にも現れており、時に欧米でイスラム教徒との対立を目にしたりしますけれどそこにはキリスト教VSイスラム教みたいな図式に思われがちですが「多分違うのだろう」と思うのです。
前述DATAにあるように現代欧米ではかなり「脱キリスト教」が潜在的に進んでおり、ともすれば敬虔なイスラム教徒の姿がそのまんまカルト的にに見えちゃっているのではなかろうかと考えるのです。
そもそも宗教離脱派の彼ら自身「アブラハムの宗教(兄弟関係にあるユダヤ教・キリスト教・イスラム教のこと)ダメ出し」の流れのなかで先進各国で「脱キリスト教」も進んでいる昨今、キリスト教保守派だけが突出して(所謂右傾化のように)対立軸になっているとは言い切れないでしょう。
■確かに先日のウクライナのデモという名の武装クーデターの主力はロシア曰くネオナチとも呼ばれるウクライナ保守派ですし、ドイツではかなり昔からネオナチによるトルコ人街への襲撃みたいな話を聞きますけれどネット世論における対立というか欧州にとっては移民問題ですか、
ここって日本のネトウヨ現象に似て「マスコミのPCが(差別表現などの自主規制:PCポリティカルコレクト)欺瞞だいい加減にしろ」みたいな話も相当強いんですよ。
ある意味欧州の移民問題にも”左巻き知識人”的な結合があるため、政治的にも左翼陣営は(ここ米国民主党もそうですが)移民問題に寛容ですから(国内的に昨今これがイスラム教移民問題となりつつある)、見方変えると「対立軸がすれ違っている」ように思います。
結果論として政治勢力の図式は(上記の関係があるものだから)「どうしたって左翼陣営の敗退」になるため、なんだかんだと右傾化みたいなレッテルを貼られもするんですが、
日本の政治状況においてこの辺の話、実情は全然違うところありますが例にあげると「勢いがあったころの大阪維新の台頭の雰囲気、英国におけるスコットランド独立党躍進」ちょっと似ていると感じるんですよね。
(推測ですが「現在のギリシャの反EUな動向」も同じ線上にある現象かも。)
(大阪維新が台頭した時には「名古屋減税」や「新党大地」など他の地域政党も伸びてます。先日の沖縄知事選も自民系+共産みたいなトンデモ合体ありましたが事実上ここも「沖縄本土党」みたいなニュアンスで理解するべきかと。)
どうなんでしょ、
■『共同幻想』崩壊の中、右傾化みたいな政治状況の”中身”ってかなり違うのじゃないかと。
これは日本のネトウヨ論でもあるのですが、彼らは所謂右翼とは違いますからって「そもそも旧来の日本の右翼は親韓だから(フ○TVがそうだったように)ネトウヨの嫌韓とは全く違うのであり、それを右傾化とひとからげにして見るのは全く正確じゃありません。
現代社会において『共同幻想』は崩壊しますが、国家や出生地や言語など「”だいたい普遍的”な帰属性アイデンティファイ」はどうしたって残ります(自分の姿形に準じるものですし)。
しかし「”だいたい普遍的”な帰属性アイデンティファイ」には神話性や幻想性が無いのでそこに個人が依存する事はありません(反動形成があれば別だけど)。
●限りなく「共通認識」であり『共同幻想』と呼べないかも?な水準になります。
「”だいたい普遍的”な帰属性アイデンティファイ」ってのは「ただそれだけのこと」なんですが、これに対して左翼陣営は「あからさまに『共同幻想』的な世界から移民問題云々」に組みしているワケで、「ただそれだけのこと陣営」から見ると「そんな左翼陣営の有様はあからさまな謀略やプロパガンダに見える」のですよ。
更にネットに多いメディアリテラシー論も加算されて、左翼陣営の言論は強い批判にさらされます。
↑
ネトウヨが保守系右翼という側面が無いとは言いませんが、わかりやすい構図は(前述の各国の選挙結果がそうであるように)「強く批判されている側がそんな左翼陣営だから」じゃないのかと、
相対的に「もっぱら左翼が批判対称なのでネトウヨなんて蔑称で右翼認定されてしまう」ように思うのですよ。
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タグ:共同幻想
2015年06月22日
戦争における発砲率とかいう話
この辺の論議には研究者の間で諸説あるようで、
おおよそまとめてみるとWW2ぐらいまでの戦争における兵士の発砲率は2割前後(かそれ以下)であり、更にそれは「発砲しただけ」であって、敵兵を明快に殺す意図を持って発砲した数字では無い。
(少なくとも欧州にとっての戦争の惨劇と言えば”WW1から”なので、それ以前の戦闘も同様かそれ以上に少ないかったことが推測される。←近代国家同士の戦争行為が前提だけれど。)
■ガンマニアじゃない方はあまりご存知無いかもですが、そもそも軍隊が使用する小火器は「殺傷用では”無い”」のです。ジュネーブ協定により小火器の弾丸は当たっても貫通銃創になりやすい「フルメタルジャケット弾」である事がルールとして定められており、着弾と同時に弾頭が潰れて強い殺傷力を持つ「ホローポイント弾の使用は禁止」されています。
(ちなみに米国の警察官なんかは当たり前のようにホローポイント系が標準。昨今拳銃はオートマが主力なのでジャムが怖くてカッパージャケット選ぶ警官もいるかもですが、これも殺傷力を高めるアルミジャケットなんてのもあります。)
前述のとおりジュネーブ協定の「フルメタルジャケット弾」使用のルールは着弾しても貫通銃創となり一発で致命傷とならないようにするためです。
戦争というのも欧米ではスポーツと似た想定が行われており、敵兵が銃創により(即死するのでは無く)ダウンすれば救助する兵士と衛生兵が必要になり「一度に複数名の戦力を削ぐ事が可能」となるため即死させるより戦果は大きい。
指揮官サイドは戦力の3分の1程度が戦闘不能になれば白旗を揚げ捕虜となり(捕虜もジュネーブ協定で丁重に扱われる事が確約されている)戦闘の勝敗は決しますから、小銃弾により兵士は負傷するだけで命を落とさない方が戦術的にも正しい事になっているんです。
正規軍は殲滅戦や玉砕戦(厳密に言えば玉砕戦はジュネーブ協定違反かもしれない)のような戦い方をしません。士官学校でも教えないでしょう。←あくまで建前論ですが。
海戦においても、敵艦撃沈後に海に投げ出された兵員を可能な限り救助するのが勝った側の義務である紳士協定があります。
時にWW2の日本軍が世界に恐れられていたのは、明治維新時に欧米列強の戦争の強さを一神教にあると考えた当時のエスタブリッシュメントが(江戸時代以前はあり得なかった)天皇制を軍神や現人神的な『帝国幻想』プロパガンダをデッチ上げた効果が集団心理の中で想定を越える浸透力を持ってしまったため(多分これは倒幕により下級武士達があたかもフランス革命後に貴族の模倣を始めた大衆と似て「強い権威に帰属する特権階級」世界の上部構造に自分の帰属もシフトされる幻想を見たからだろうと想像できる)、負傷しても後方に下がらず命を賭して最後まで戦い、指揮官も戦力の半分が戦闘不能になっても全く白旗揚げる意思すら無く、最終局面において「玉砕戦」を仕掛けるという鬼神ぶりが欧米にとって「それは反則だろう」と恐れられたワケです。
ドイツの電撃戦かという勢いで中国に侵攻した関東軍の戦法も(一部にはまだこの当時は戦国時代の用兵が教練に残っていたという説もある)「一斉射撃の後着剣!突撃!」これだけで当時の中国兵はバタバタと逃げたという話もあります。
ここも当時の中国兵が極端に弱かったとかそういう意味では無く、話を冒頭の兵士の発砲率に戻しますが、一人の兵士が敵兵を殺傷する確率は「限りなく当時の国内の殺人事件などの発生率に近いものだった」という説まであるのです。
(意外に思われるかもしれないが、WW2から訓練により半数以上の兵士が敵兵に発砲できるようになったベトナム戦争においても、小銃弾が人体に当たる確率は2万発に1発だったというDATAもある。米軍における発砲率上昇の進歩は、映画『フルメタルジャケット』参照。)
当時の日本兵は中国大陸だけでなくアジア諸国や欧米に対しても恐ろしい存在だったのは当たり前。
銃を構えても半数も撃たず、撃ったとしてもどこを狙うでも無しが常識だった時代の話しです。この時に帝国陸軍は(ここも激烈な明治維新の戦いが元になったのかもしれないが)当たるか信用ならない銃弾は一斉射撃で一発撃った後に全員着剣し抜刀した指揮官を先頭に銃剣突撃するのです。そんな非常識な戦闘を見た事が無い敵兵には「鬼神の軍団」に見えたかも知れません(後述しますがバーサーカーと理解されていた可能性もある)。
↑
ここも更にバックグラウンドがあります。
日本の戦国時代にマジに殺し合い始めたのは織田信長が始まりで、それまで戦場にガチの殺し合いが行われる事は無かったとされており、陣形の威張りあいの後ビビッた方が和睦だとか方位され兵糧が尽きたところで和睦、そのような形で戦闘は終わっていた。
所謂『常設の職業軍人部隊』を持ったのも当時キチ○とまで呼ばれた信長が始まり。
北欧神話にあるバーサーカー(狂戦士)神話なんてのはそもそもが「普段は農民や漁民で戦になると兵士になる」って当時の北欧バイキングが「ゲルマンの傭兵部隊を見た時の感想」という説もあるぐらので、そこから見れば信長軍団は当時の日本においてバーサーカーだったし、明治維新の苛烈な戦い(幕府軍に対する殲滅戦みたいなものでしょ)、これを経過してまだ間が無かった帝国陸軍の用兵は大陸の中国軍にとってバーサーカー以外の何ものでもなかったのかも知れない。
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おおよそまとめてみるとWW2ぐらいまでの戦争における兵士の発砲率は2割前後(かそれ以下)であり、更にそれは「発砲しただけ」であって、敵兵を明快に殺す意図を持って発砲した数字では無い。
(少なくとも欧州にとっての戦争の惨劇と言えば”WW1から”なので、それ以前の戦闘も同様かそれ以上に少ないかったことが推測される。←近代国家同士の戦争行為が前提だけれど。)
■ガンマニアじゃない方はあまりご存知無いかもですが、そもそも軍隊が使用する小火器は「殺傷用では”無い”」のです。ジュネーブ協定により小火器の弾丸は当たっても貫通銃創になりやすい「フルメタルジャケット弾」である事がルールとして定められており、着弾と同時に弾頭が潰れて強い殺傷力を持つ「ホローポイント弾の使用は禁止」されています。
(ちなみに米国の警察官なんかは当たり前のようにホローポイント系が標準。昨今拳銃はオートマが主力なのでジャムが怖くてカッパージャケット選ぶ警官もいるかもですが、これも殺傷力を高めるアルミジャケットなんてのもあります。)
前述のとおりジュネーブ協定の「フルメタルジャケット弾」使用のルールは着弾しても貫通銃創となり一発で致命傷とならないようにするためです。
戦争というのも欧米ではスポーツと似た想定が行われており、敵兵が銃創により(即死するのでは無く)ダウンすれば救助する兵士と衛生兵が必要になり「一度に複数名の戦力を削ぐ事が可能」となるため即死させるより戦果は大きい。
指揮官サイドは戦力の3分の1程度が戦闘不能になれば白旗を揚げ捕虜となり(捕虜もジュネーブ協定で丁重に扱われる事が確約されている)戦闘の勝敗は決しますから、小銃弾により兵士は負傷するだけで命を落とさない方が戦術的にも正しい事になっているんです。
正規軍は殲滅戦や玉砕戦(厳密に言えば玉砕戦はジュネーブ協定違反かもしれない)のような戦い方をしません。士官学校でも教えないでしょう。←あくまで建前論ですが。
海戦においても、敵艦撃沈後に海に投げ出された兵員を可能な限り救助するのが勝った側の義務である紳士協定があります。
時にWW2の日本軍が世界に恐れられていたのは、明治維新時に欧米列強の戦争の強さを一神教にあると考えた当時のエスタブリッシュメントが(江戸時代以前はあり得なかった)天皇制を軍神や現人神的な『帝国幻想』プロパガンダをデッチ上げた効果が集団心理の中で想定を越える浸透力を持ってしまったため(多分これは倒幕により下級武士達があたかもフランス革命後に貴族の模倣を始めた大衆と似て「強い権威に帰属する特権階級」世界の上部構造に自分の帰属もシフトされる幻想を見たからだろうと想像できる)、負傷しても後方に下がらず命を賭して最後まで戦い、指揮官も戦力の半分が戦闘不能になっても全く白旗揚げる意思すら無く、最終局面において「玉砕戦」を仕掛けるという鬼神ぶりが欧米にとって「それは反則だろう」と恐れられたワケです。
ドイツの電撃戦かという勢いで中国に侵攻した関東軍の戦法も(一部にはまだこの当時は戦国時代の用兵が教練に残っていたという説もある)「一斉射撃の後着剣!突撃!」これだけで当時の中国兵はバタバタと逃げたという話もあります。
ここも当時の中国兵が極端に弱かったとかそういう意味では無く、話を冒頭の兵士の発砲率に戻しますが、一人の兵士が敵兵を殺傷する確率は「限りなく当時の国内の殺人事件などの発生率に近いものだった」という説まであるのです。
(意外に思われるかもしれないが、WW2から訓練により半数以上の兵士が敵兵に発砲できるようになったベトナム戦争においても、小銃弾が人体に当たる確率は2万発に1発だったというDATAもある。米軍における発砲率上昇の進歩は、映画『フルメタルジャケット』参照。)
当時の日本兵は中国大陸だけでなくアジア諸国や欧米に対しても恐ろしい存在だったのは当たり前。
銃を構えても半数も撃たず、撃ったとしてもどこを狙うでも無しが常識だった時代の話しです。この時に帝国陸軍は(ここも激烈な明治維新の戦いが元になったのかもしれないが)当たるか信用ならない銃弾は一斉射撃で一発撃った後に全員着剣し抜刀した指揮官を先頭に銃剣突撃するのです。そんな非常識な戦闘を見た事が無い敵兵には「鬼神の軍団」に見えたかも知れません(後述しますがバーサーカーと理解されていた可能性もある)。
↑
ここも更にバックグラウンドがあります。
日本の戦国時代にマジに殺し合い始めたのは織田信長が始まりで、それまで戦場にガチの殺し合いが行われる事は無かったとされており、陣形の威張りあいの後ビビッた方が和睦だとか方位され兵糧が尽きたところで和睦、そのような形で戦闘は終わっていた。
所謂『常設の職業軍人部隊』を持ったのも当時キチ○とまで呼ばれた信長が始まり。
北欧神話にあるバーサーカー(狂戦士)神話なんてのはそもそもが「普段は農民や漁民で戦になると兵士になる」って当時の北欧バイキングが「ゲルマンの傭兵部隊を見た時の感想」という説もあるぐらので、そこから見れば信長軍団は当時の日本においてバーサーカーだったし、明治維新の苛烈な戦い(幕府軍に対する殲滅戦みたいなものでしょ)、これを経過してまだ間が無かった帝国陸軍の用兵は大陸の中国軍にとってバーサーカー以外の何ものでもなかったのかも知れない。
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2015年06月20日
「刑法39条が問われる犯罪」について補足”犯罪心理のボーダーライン”
刑法39条の話は何度か書いてきたので「私が刑法39条そのものに反対である件」は説明省きますが、
今回は犯罪心理のボーダーライン”に絞って話を進めてみましょう。
少年犯罪心理をとっかかりにするとわかりやすいと思います。
少年の代表的な心理に「中二病」ってありますね?
これは思春期反抗期におけるアンチ『共同幻想』状態(アンチ既存秩序・既存常識)ならではの心理となりますが、言うならば「反動形成」です。
「そっちがこうならこっちはこう」←この時反抗すべき対象が”何らかの心理的事情”で(個人的事情のプレッシャーなど)強大だとか誇大に見える場合、そっちを否定可能な均衡させる概念は「より大きな、極端な」ものでなければなりません。
発端からして実情より強大に・誇大に感じる個人的事情を発端としますから、更にここに係数付けて(乗数効果じゃないけれど)選択肢が過剰化するのですからトンデモな話になっても何ら不思議ではありません。
単純に「反動形成」の現象をわかりやすく説明すると以下、
「ごめんなさいねショートケーキが無かったの、だからロールケーキで我慢して」
「絶対絶対嫌だ、誕生日はショートケーキって約束したもん。」
「うーんだから今日はロールケーキだけどそこをなんとか、、これおいしいのなんだよ」
「だったら今からプリン100個買ってきてよ!!」
さて、この場合も前述中二病の場合も、選択される”対称となるカード”は十二分に自意識に認識されてます(そこ思いつく経路を踏んでるので)。
確かに高い興奮で「それ以外の選択肢が存在しないかのように」自意識には感じられていますが、絶対回避できないワケではありません。
(流石に自分でも「プリン100個はネーな」などと思い)
「チクショー!!」とロールケーキを床に叩きつけるなどです。
(これ動物行動学のローレンツが、魚のグッピーの観察でも同様の行動を論証してます。)
■特に犯罪においても当人が「あれれこれが違法とはまったく知らないし理解できない」などであれば刑法39条的な適応もギリギリ例外的にあり得るかもしれませんが(異例中の異例だと思います)、殺人など六法読まなくても知っている違法行為の場合、違法であるとか背徳であるとか所謂”反動形成フラグ”を自認している事になり(その認識が事前になければ興奮できないのですからね)、そのボーダーラインを超える場合そこに自意識共犯や自意識共同謀議が明快に成立することになります。
(典型例が万引き依存症でしょうか。不倫のスリルも似たような現象です。)
全く責任能力を問えないなど”あり得ない”。
何をしたのか記憶に無いだとか、衝動的で説明できないなんて場合も「だとすれば殺人の行為自体も記憶に無い」とならなければ整合性がありません。
この場合でも無意識領域だから無罪になるのだとしたら、泥酔して酩酊状態になれば誰でも人殺しをしていいことになります。
行為の責任を問うという概念から見た場合、「反動形成」の立証は「典型的とも言える違法行為を選択している」事で十分であり(当事者自我でしかその選択を思いつけない)、
→続きを読む
今回は犯罪心理のボーダーライン”に絞って話を進めてみましょう。
少年犯罪心理をとっかかりにするとわかりやすいと思います。
少年の代表的な心理に「中二病」ってありますね?
これは思春期反抗期におけるアンチ『共同幻想』状態(アンチ既存秩序・既存常識)ならではの心理となりますが、言うならば「反動形成」です。
「そっちがこうならこっちはこう」←この時反抗すべき対象が”何らかの心理的事情”で(個人的事情のプレッシャーなど)強大だとか誇大に見える場合、そっちを否定可能な均衡させる概念は「より大きな、極端な」ものでなければなりません。
発端からして実情より強大に・誇大に感じる個人的事情を発端としますから、更にここに係数付けて(乗数効果じゃないけれど)選択肢が過剰化するのですからトンデモな話になっても何ら不思議ではありません。
単純に「反動形成」の現象をわかりやすく説明すると以下、
「ごめんなさいねショートケーキが無かったの、だからロールケーキで我慢して」
「絶対絶対嫌だ、誕生日はショートケーキって約束したもん。」
「うーんだから今日はロールケーキだけどそこをなんとか、、これおいしいのなんだよ」
「だったら今からプリン100個買ってきてよ!!」
さて、この場合も前述中二病の場合も、選択される”対称となるカード”は十二分に自意識に認識されてます(そこ思いつく経路を踏んでるので)。
確かに高い興奮で「それ以外の選択肢が存在しないかのように」自意識には感じられていますが、絶対回避できないワケではありません。
(流石に自分でも「プリン100個はネーな」などと思い)
「チクショー!!」とロールケーキを床に叩きつけるなどです。
(これ動物行動学のローレンツが、魚のグッピーの観察でも同様の行動を論証してます。)
■特に犯罪においても当人が「あれれこれが違法とはまったく知らないし理解できない」などであれば刑法39条的な適応もギリギリ例外的にあり得るかもしれませんが(異例中の異例だと思います)、殺人など六法読まなくても知っている違法行為の場合、違法であるとか背徳であるとか所謂”反動形成フラグ”を自認している事になり(その認識が事前になければ興奮できないのですからね)、そのボーダーラインを超える場合そこに自意識共犯や自意識共同謀議が明快に成立することになります。
(典型例が万引き依存症でしょうか。不倫のスリルも似たような現象です。)
全く責任能力を問えないなど”あり得ない”。
何をしたのか記憶に無いだとか、衝動的で説明できないなんて場合も「だとすれば殺人の行為自体も記憶に無い」とならなければ整合性がありません。
この場合でも無意識領域だから無罪になるのだとしたら、泥酔して酩酊状態になれば誰でも人殺しをしていいことになります。
行為の責任を問うという概念から見た場合、「反動形成」の立証は「典型的とも言える違法行為を選択している」事で十分であり(当事者自我でしかその選択を思いつけない)、
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2015年06月17日
鬱的状況の基本的な解説
(最初に言っておきますが今回かなり難解且つ長文です。)
※基本的に以下解説は慢性的な背景のある鬱状況の説明であり、ホルモンバランス変化による更年期鬱や限りなくPTSDなトラウマ系を発端とする鬱の説明ではありません。
重要なので誤解の無いよう宜しくお願いします。
■「思い悩む事や、ふさぎ込んでしまう」
誰にでもあることですね。
この状況と対象性となる状況を表す言葉は「立ち直り」などでしょう。
だいたいにおいて言葉ってものは均衡する語彙とセットで”ひとつの概念”を表してます。
ですから、本来「立ち直り」までで完結を前提とする”さる目的”が、その途中で→たとえば「思い悩む事やふさぎ込みが継続し、立ち直りが発生しない」場合に「それは本来目的からして困った事が起きている」ことになり、ざっくり言えばこの継続する”さる目的”の途中停止状態が『鬱』って代物です。
当事者は”誰よりも立ち直りプロセスの発現が起きてこない”のをわかっているのですから、鬱的状況は深刻な問題であり、更に他からここにストレスが付加される事になれば「悪循環が重層化」してしまいます。
●事の発端というか「鬱的状況の仕組みとはどんなものか」。
■冒頭説明の構造読んでいただければ、具体的に悩んでいる”個別事項”やふさぎこむキッカケとなった”個別事項”にやれどうしたこうしたなど個別具体的な対応をすることは「実はまったく意味がない」ことがわかります、重要な鍵は「立ち直り」が起動しないところだからです。
個別事項に過度の関心を向ける事は逆効果になる場合すらあります。
時に相談と言えば「話すだけでも楽になる」なんて言説もあるため個別事項を詳細に話す事に意味があるようにも思えますが、個別事項の解決が有効性を持つのは→「話す事により”標準立ち直りプロセス”を促すキッカケとなり得るから」であって、「立ち直りプロセスそのものが発現しない状況」となる鬱状態の場合だと全く違う意味にもなるからです。
(※目先の具体論がいかに”立ち直りなど起こり得ない深刻性”のあるものかの説明に利用されてしまうケースが多い。)
(※2「限りなくPTSDなトラウマ系鬱」の場合は発端となった事件を語ることによりジャーナリズム的に発端となる事件のネタバレ解体という意味で”効果を持つ”ものとなるため、ここの判断は重要。)
なかなか説明難しいところなので、更に解説していきましょう。
↓
●標準立ち直りパターン
「思い悩んじゃうよね」
(パチンと膝などを叩くとか、吸っていたタバコをぐっと消すとか、お茶や珈琲を一口飲んでカップを置きのような「転換ポイントみたいな”拍子”」を取った後に)
「さて!」
鬱的メンタル問題がある時には、このプロセス「さて!」が発現しません。
では、標準の立ち直りプロセスが起動時に自我は内部で何をやっているのでしょうか?
↓
「思い悩んじゃうよね」
事実関係のジャーナリズム切り分け発動→「何があったのか第三者的見地で確認」→「何ができて、何ができないか」→「”できる”判定行動の中から何を選択するべきか」←こんな感じのオルタナティブ思考のプロセスがスパコン並みの速度で脳内展開され、
自意識にはこの瞬間の自分を「うーん」だとか「あ〜あ」だとか「え〜っと」などの感覚で認知されます。(※機能的には無意識DATAとの中間点のような位置にあるので”前意識領域”みたいなところでパパパパパと自動で反射的な脳活動が派生。←立ち食い蕎麦やの券売機の前で「えーっと何にしようかな」な時に脳内でメニューがパパパパパと展開する時の”アレ”です。ちなみに「フラッシュバック現象」もこのパパパパパの類。)
簡単にまとめると「問題の切り分けと整理による状況判断と可能な選択肢の確認」です。
このプロセスの起動と実行の一区切りが、
『パチンと膝などを叩くとか、吸っていたタバコをぐっと消すとか、お茶や珈琲を一口飲んでカップを置き』などの行動で認知・確認されてるワケです。
(或いは自意識が「はいここまで」と終了命令を出している。)
軽い日常時であれば、この選択はぶっちゃけサイコロのような場当たり選択で構わないため、脳内にパパパパパと展開しているイメージを「はいここまで」を勘だけで止めて(パチンと膝を叩いた時に見えたものでいいやとか)アバウトに決めちゃっている場合もあるかと思います。
パパパパパの部分は”前意識的”に行われており(自意識と無意識の微妙な中間点で意識的に考えるというよりも過去用例のDATAベースを閲覧しているような感じ)、あたかも「DATAベースの結果リストをザザーっと一目しているかのように」展開し→自意識は「うーんと、どれだろう」検討する格好になります。
呼称付けるなら「脳のシミュレーション機能」でしょうか。
選択が終わると「さて!」の発音でプロセスは終了します。
勿論この状況は前述のように「アバウト過ぎ」な場合もあるのでww
「あー、ちょちょっと待って(もう一回)」とやり直す場合も珍しくありません。
↑
上記のように思い悩むほど選択事項が深刻では無い場合、この時間は(蕎麦屋の券売機前のように)とても”短く”、その様も「深刻そうな様子」には至らず、「一瞬真顔になる」程度で完結します。
→続きを読む
※基本的に以下解説は慢性的な背景のある鬱状況の説明であり、ホルモンバランス変化による更年期鬱や限りなくPTSDなトラウマ系を発端とする鬱の説明ではありません。
重要なので誤解の無いよう宜しくお願いします。
■「思い悩む事や、ふさぎ込んでしまう」
誰にでもあることですね。
この状況と対象性となる状況を表す言葉は「立ち直り」などでしょう。
だいたいにおいて言葉ってものは均衡する語彙とセットで”ひとつの概念”を表してます。
ですから、本来「立ち直り」までで完結を前提とする”さる目的”が、その途中で→たとえば「思い悩む事やふさぎ込みが継続し、立ち直りが発生しない」場合に「それは本来目的からして困った事が起きている」ことになり、ざっくり言えばこの継続する”さる目的”の途中停止状態が『鬱』って代物です。
当事者は”誰よりも立ち直りプロセスの発現が起きてこない”のをわかっているのですから、鬱的状況は深刻な問題であり、更に他からここにストレスが付加される事になれば「悪循環が重層化」してしまいます。
●事の発端というか「鬱的状況の仕組みとはどんなものか」。
■冒頭説明の構造読んでいただければ、具体的に悩んでいる”個別事項”やふさぎこむキッカケとなった”個別事項”にやれどうしたこうしたなど個別具体的な対応をすることは「実はまったく意味がない」ことがわかります、重要な鍵は「立ち直り」が起動しないところだからです。
個別事項に過度の関心を向ける事は逆効果になる場合すらあります。
時に相談と言えば「話すだけでも楽になる」なんて言説もあるため個別事項を詳細に話す事に意味があるようにも思えますが、個別事項の解決が有効性を持つのは→「話す事により”標準立ち直りプロセス”を促すキッカケとなり得るから」であって、「立ち直りプロセスそのものが発現しない状況」となる鬱状態の場合だと全く違う意味にもなるからです。
(※目先の具体論がいかに”立ち直りなど起こり得ない深刻性”のあるものかの説明に利用されてしまうケースが多い。)
(※2「限りなくPTSDなトラウマ系鬱」の場合は発端となった事件を語ることによりジャーナリズム的に発端となる事件のネタバレ解体という意味で”効果を持つ”ものとなるため、ここの判断は重要。)
なかなか説明難しいところなので、更に解説していきましょう。
↓
●標準立ち直りパターン
「思い悩んじゃうよね」
(パチンと膝などを叩くとか、吸っていたタバコをぐっと消すとか、お茶や珈琲を一口飲んでカップを置きのような「転換ポイントみたいな”拍子”」を取った後に)
「さて!」
鬱的メンタル問題がある時には、このプロセス「さて!」が発現しません。
では、標準の立ち直りプロセスが起動時に自我は内部で何をやっているのでしょうか?
↓
「思い悩んじゃうよね」
事実関係のジャーナリズム切り分け発動→「何があったのか第三者的見地で確認」→「何ができて、何ができないか」→「”できる”判定行動の中から何を選択するべきか」←こんな感じのオルタナティブ思考のプロセスがスパコン並みの速度で脳内展開され、
自意識にはこの瞬間の自分を「うーん」だとか「あ〜あ」だとか「え〜っと」などの感覚で認知されます。(※機能的には無意識DATAとの中間点のような位置にあるので”前意識領域”みたいなところでパパパパパと自動で反射的な脳活動が派生。←立ち食い蕎麦やの券売機の前で「えーっと何にしようかな」な時に脳内でメニューがパパパパパと展開する時の”アレ”です。ちなみに「フラッシュバック現象」もこのパパパパパの類。)
簡単にまとめると「問題の切り分けと整理による状況判断と可能な選択肢の確認」です。
このプロセスの起動と実行の一区切りが、
『パチンと膝などを叩くとか、吸っていたタバコをぐっと消すとか、お茶や珈琲を一口飲んでカップを置き』などの行動で認知・確認されてるワケです。
(或いは自意識が「はいここまで」と終了命令を出している。)
軽い日常時であれば、この選択はぶっちゃけサイコロのような場当たり選択で構わないため、脳内にパパパパパと展開しているイメージを「はいここまで」を勘だけで止めて(パチンと膝を叩いた時に見えたものでいいやとか)アバウトに決めちゃっている場合もあるかと思います。
パパパパパの部分は”前意識的”に行われており(自意識と無意識の微妙な中間点で意識的に考えるというよりも過去用例のDATAベースを閲覧しているような感じ)、あたかも「DATAベースの結果リストをザザーっと一目しているかのように」展開し→自意識は「うーんと、どれだろう」検討する格好になります。
呼称付けるなら「脳のシミュレーション機能」でしょうか。
選択が終わると「さて!」の発音でプロセスは終了します。
勿論この状況は前述のように「アバウト過ぎ」な場合もあるのでww
「あー、ちょちょっと待って(もう一回)」とやり直す場合も珍しくありません。
↑
上記のように思い悩むほど選択事項が深刻では無い場合、この時間は(蕎麦屋の券売機前のように)とても”短く”、その様も「深刻そうな様子」には至らず、「一瞬真顔になる」程度で完結します。
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タグ:鬱
2015年06月12日
『憲法解釈』のあれこれ
最高裁云々、憲法学者云々では無く(最高裁判断はその趣旨で判決出るまで推定無罪と同じだから)、政府の見解としてどこまで裁量があるのかってかさ、
政治とは憲法違反の判決があるまで、憲法解釈をせずに法案を作る権利があるといってもいい。
「事前にそこを政治が忖度するのであれば、最高裁判所は必要無い事になるし、政治家は最低限司法試験合格の元判事でなければならない」なんて事になるからね。
政治責任として重要なのは「違憲判決が出た場合速やかに同法案を改正なり廃止すること、或いは世論などの状況を見て憲法改正を検討すること」であって、国会においては(ここは現代社会では左翼変人扱いの釣り人オザーさんがPKO法案作った時に強く批判していたポイントだが)内閣法制局がここを事前判断?するものだから、「内閣法制局はいつから最高裁を兼ねる部署になったのか?」という批判に繋がったワケです。
そこで、安倍政権はまず内閣法制局による集団的自衛権合憲の言質を担当者にとって法案化を進めてきました(ある意味政治力で大きくそこを妥協させた)。
流れ的には、最初から「憲法違反では無いと思っているが、こりゃ誰か法案成立後に違憲判断を求めて裁判になる」事を百も承知で進めている論議でしょう。
うーんと、集団的自衛権の関連法案は「その結果が違憲であれば、そこを論点にじゃあ憲法改正論議が必要ですね」という改憲論議を予め織り込み草案されていると考えていい。
安倍政権は特段事前の憲法判断を云々する事無く法案の成立を進めて問題ありません。
「憲法改正論議を本気で進めていれば(或いはその反対に合憲である強い意思があれば)」←ここが条件になるでしょう。法案化そのものが問題なのでは無く、違憲である批判があるのであれば次の選挙の争点になるんですから、間接的に国民の意思表明も可能な線です。
(※ここがベタで問題になるのは、そもそも憲法改正などの論議や問題提起無しで、全く憲法条文に無知なだけでうっかり憲法違反な法案などを作成しようとして「その法案はあからさまに違法ですが」みたいな場合の話。「道交法の知識が全く無しに、道交法改正の論議も皆無な政治家が赤信号横断法案を作るとか無理ってか思い切り違法」つー話。)
■ちなみに世論調査的にも、私の個人的意見としても「現状水準の論議で憲法改正は反対」です。
そもそも日本はどちらか言うと名文法では無く慣習法系の国家であり(いちいち細目を禁止事項のように名文化しない)、果たして「憲法解釈論」のように憲法に記載されていない付帯項目を後から書き足したみたいな話には矛盾があるし(なら批判派はそれを名文化する憲法改正論議をするべきだ)、
ぶっちゃけ裁判韻制度にあるように、法律というものに民主的な関与をしていこうって方向性がある現在(裁判においても違法リスクのある民主的関与を試みているのだから)、
安倍政権が合憲論無いし憲法改正論で集団的自衛権を論議する場合の「彼らなりの憲法解釈」という縛りは効いてるワケです。
それに合致させようと悪戦苦闘して法案化してますから。
私は個人的にもこの状態は好ましいと思っていて、今現在の安倍政権の集団的自衛権の論議にも「憲法9条はその縛りが機能している」と考えてます。←違憲合憲判断は民主制において人それぞれじゃないといかんのだから(でないのであれば民主制を止めて学者と最高裁が政治を行う話になってしまう)。
憲法学者のみなさんも意見はイロイロあるので、その意見を自由に表明しているのであって、彼らがそれは違憲だ無理な法案化したら憲法判断を仰ぐ訴訟も辞さずと考える事でOKなのです。
(※ある意味、憲法学者のみなさんが同法案に違憲だと反対する事に賛成です。大いにやっていただきたい。)
政治家と学者の関係はこの状態である意味同論議で均衡するので、その方向でやっちください。
しかしマスコミがあたかも「学者が民主政治を指導する」みたいなスタンスで報道するのは好ましく無い。
(※個人的に憲法改正に現状反対なのは、日本の政治はまだまだ成熟した民主制度とは言えないからで、今後もなんだかんだと自公永久政権に回帰するのであれば、これさ一部勢力のやりたい放題になりますから、少なくとも民主政治が成熟するまで「おっかなくて憲法9条は外せない」と思ってます。←民意と違うところで意味不明な戦争が政治決断されちゃうのが怖い。)
→続きを読む
政治とは憲法違反の判決があるまで、憲法解釈をせずに法案を作る権利があるといってもいい。
「事前にそこを政治が忖度するのであれば、最高裁判所は必要無い事になるし、政治家は最低限司法試験合格の元判事でなければならない」なんて事になるからね。
政治責任として重要なのは「違憲判決が出た場合速やかに同法案を改正なり廃止すること、或いは世論などの状況を見て憲法改正を検討すること」であって、国会においては(ここは現代社会では左翼変人扱いの釣り人オザーさんがPKO法案作った時に強く批判していたポイントだが)内閣法制局がここを事前判断?するものだから、「内閣法制局はいつから最高裁を兼ねる部署になったのか?」という批判に繋がったワケです。
そこで、安倍政権はまず内閣法制局による集団的自衛権合憲の言質を担当者にとって法案化を進めてきました(ある意味政治力で大きくそこを妥協させた)。
流れ的には、最初から「憲法違反では無いと思っているが、こりゃ誰か法案成立後に違憲判断を求めて裁判になる」事を百も承知で進めている論議でしょう。
うーんと、集団的自衛権の関連法案は「その結果が違憲であれば、そこを論点にじゃあ憲法改正論議が必要ですね」という改憲論議を予め織り込み草案されていると考えていい。
安倍政権は特段事前の憲法判断を云々する事無く法案の成立を進めて問題ありません。
「憲法改正論議を本気で進めていれば(或いはその反対に合憲である強い意思があれば)」←ここが条件になるでしょう。法案化そのものが問題なのでは無く、違憲である批判があるのであれば次の選挙の争点になるんですから、間接的に国民の意思表明も可能な線です。
(※ここがベタで問題になるのは、そもそも憲法改正などの論議や問題提起無しで、全く憲法条文に無知なだけでうっかり憲法違反な法案などを作成しようとして「その法案はあからさまに違法ですが」みたいな場合の話。「道交法の知識が全く無しに、道交法改正の論議も皆無な政治家が赤信号横断法案を作るとか無理ってか思い切り違法」つー話。)
■ちなみに世論調査的にも、私の個人的意見としても「現状水準の論議で憲法改正は反対」です。
そもそも日本はどちらか言うと名文法では無く慣習法系の国家であり(いちいち細目を禁止事項のように名文化しない)、果たして「憲法解釈論」のように憲法に記載されていない付帯項目を後から書き足したみたいな話には矛盾があるし(なら批判派はそれを名文化する憲法改正論議をするべきだ)、
ぶっちゃけ裁判韻制度にあるように、法律というものに民主的な関与をしていこうって方向性がある現在(裁判においても違法リスクのある民主的関与を試みているのだから)、
安倍政権が合憲論無いし憲法改正論で集団的自衛権を論議する場合の「彼らなりの憲法解釈」という縛りは効いてるワケです。
それに合致させようと悪戦苦闘して法案化してますから。
私は個人的にもこの状態は好ましいと思っていて、今現在の安倍政権の集団的自衛権の論議にも「憲法9条はその縛りが機能している」と考えてます。←違憲合憲判断は民主制において人それぞれじゃないといかんのだから(でないのであれば民主制を止めて学者と最高裁が政治を行う話になってしまう)。
憲法学者のみなさんも意見はイロイロあるので、その意見を自由に表明しているのであって、彼らがそれは違憲だ無理な法案化したら憲法判断を仰ぐ訴訟も辞さずと考える事でOKなのです。
(※ある意味、憲法学者のみなさんが同法案に違憲だと反対する事に賛成です。大いにやっていただきたい。)
政治家と学者の関係はこの状態である意味同論議で均衡するので、その方向でやっちください。
しかしマスコミがあたかも「学者が民主政治を指導する」みたいなスタンスで報道するのは好ましく無い。
(※個人的に憲法改正に現状反対なのは、日本の政治はまだまだ成熟した民主制度とは言えないからで、今後もなんだかんだと自公永久政権に回帰するのであれば、これさ一部勢力のやりたい放題になりますから、少なくとも民主政治が成熟するまで「おっかなくて憲法9条は外せない」と思ってます。←民意と違うところで意味不明な戦争が政治決断されちゃうのが怖い。)
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2015年06月11日
社会におけるヒエラルキー構造の変遷
「打ったり走っているのは選手であり監督では無い」
時に業種によってはプロ野球などに見られるようにヒエラルキー構造上末端の現場社員が上司より給料が高い場合って決して珍しくありません(業務的に管理職は上司というより”マネージャー業”なのだから)。
「兵士の3分の1を損耗すればどんな位の高い指揮官が率いる軍でも降伏水準となる」
かといって誰にでも指揮官が務まるのか言えばそれもまた違うでしょう。
↑
市場主義的にどうしたってピラミッド型がイメージされる社会のヒエラルキー構造は単なる結果であって本質的には権威性はある種の結果論(幻想論)に過ぎず、現場サイドに個別具体的な希少性が発現すると(撃墜王と呼ばれるパイロットのように)現実問題ピラミッド構造の位置が(社会的地位)希少性(価値上位)を決定しない事がわかる。
単に「そういう社会構造モデルだ」というだけの話です。
↓
「清貧の武士」「昭和における貧乏な教師」などなど”逆パターン”で「幻想VS現実」を広告キャッチコピーのように打ち出される場合すらある。
※事実「下手すると過度な年功序列終身雇用の場合、人口構造ピラミッドと人事上のピラミッドは共通となるので、少子高齢化すると部下より管理職の方が数が多い逆ピラミッド構造となってしまう」←この場合「誰々を上位で”偉いってことにする”」という道徳的認知が(この場合選択されている道徳種は”年功”)、現実との間で合理性を保てない様子を表しており、共同幻想における道徳論はぶっちゃけた話「組織防衛のための方便である」ことをネタバレ証明している。
(確信犯的再選択の場合は例外)
■便宜上というか「社会の都合」により、『できちゃったピラミッド構造』の下部から見れば上部は「上司・上位」という建前にしておかないと、当該社会の幻想性(ほんとっぽさ)は壊れてしまうので秩序(ピラミッド構造が派生する上下関係を認知共有する道徳的伝播力・浸透圧→社会敵強迫力)が維持できなくなる→社会はその姿(イメージ)を保てなくなり有象無象の群れとなりカオス化する。
つまり、社会学的に社会構造などが当該個人の”認知”に負うのでは無く、「野球」であるとか「戦争」などの上位概念(当該社会の分類イメージ)そのものへの”理解”をベースにする場合だと、どちらか言えば急造の付け焼刃である『共同幻想』は方便に過ぎないのだから崩壊したところで社会そのものがカオス化崩壊となる事は無い。
(※当該個人が「俺は野球やろうと思って今日ユニフォーム着てきた」と意識自覚している場合、「今日の体育は野球ですよ」と号令をかける権威上位者がいなくても、人数さえそろえば『野球』というスポーツジャンル社会が開始する。「大人の草野球社会VS体育の授業としての社会性」という対比ですな。←実は「体育の評価に野球というスポーツが適当か?」の道徳性の根拠の部分は文部省の誰が決めてどんな理由なのか実のところ生徒にはわからないし考えもしない。→『共同幻想』が幻想であるわかりやすいとこです。これに対して大人の草野球は「俺にとって野球とは何か」なんてーな一家言(確信犯的選択の根拠)が各個人にある。)
(君主を偉いと思う上限関係の認知により国体が維持されるのでは無く→個人が”国家国民”などの概念を政治思想として理解していれば「幻想としての国体は崩壊しても国家社会が崩壊することは無い」)
■「誰が偉いとかの話」から→「役割分担と個人の選択だから」へシフトすることになります
↑
この対比は単純に当該社会の経済的・文明的発展度に比例します。
生きるのにカツカツで、文字の読み書きもできず「そもそも平均寿命的に誰もが大人になれるのでは無い」状況の時に、「俺にとって野球とは何か」なんて語れる状態がある筈も無く、社会に求められるのは「生きるか死ぬかかのボーダーライン」なので、当該社会の集合知でもある「この季節になれば村人全員で刈り取り開始」というリーダーの指示が道徳的にも絶対の正義として浸透していなければ”共同体”としてその村は崩壊する(議論の余地無くリーダーの指示は正義である)。
しかし、生産ロボットにより農業が自動化している社会の場合、もっぱらお茶を飲んだり詩歌を歌う日常を過ごす村人にとって”収穫祭”は文化であり、当該個人が「ナントカ村の収穫祭とは何か」の文化的理解の深度に社会の実存率は比例する(後者の社会において便宜的に派生するヒエラルキー構造上部の個人がリーダーの絶対的正義論をぶちかましても「単なる狂人」としてしか思われるだけである)。
■「状況に応じて価値論なんてものはうつろいゆくものだ」つー話です。
各個人が「俺にとって野球とは何か」なんて偉そうに語り出しているのであれば、もうその社会は「単独者化」(=できちゃったピラミッド構造における社会的地位や権威性の形骸化)へ踏み込んでいるっちゅう事です。
すっごく簡単に言うと、少子高齢化だとか人口の逆ピラミッド構造なんてのからして「豊かさの証」なので、「人口が逆ピラミッド構造になるだけでも大概の『共同幻想』は自然に崩壊しちゃうから」みたいな話です。
(※先進国の場合、見かけ上の労働市場だけを目安に所得分配すると社会実態との合理性が保持できず経済学的にマズイ話に(どこかに過剰在庫をかかえマネーのバトンリレーが滞る)なってくんです。うだうだ近代道徳論みたいな文句言って否定しようとしても高寿命高齢化で社会は「年金所得という部分的ベーシックインカム経済に自動的に突入せざるを得ない」のと同じっス。)
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コメント欄に問題となった同趣旨の投稿が続いたため、暫くの期間ブログのコメント欄トラックバックを閉鎖します。閲覧されている方には不自由となる部分もあるかと思いますがご了承ください。(再開までの期間は未定です)
詳しい経緯は下記リンク及びサイドバーコメントリンク表示の説明参照
コメント欄の削除があった件(関係障害について)
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■私のミスで時折記事のコメント欄などが承認制になっていたりしますが(或いは昔の記事など)、現在のブログ運営方針が「コメント欄トラックバックの閉鎖」なので、仮に投稿があっても内容に関わらずもれなく削除となりますので宜しくお願いします。
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時に業種によってはプロ野球などに見られるようにヒエラルキー構造上末端の現場社員が上司より給料が高い場合って決して珍しくありません(業務的に管理職は上司というより”マネージャー業”なのだから)。
「兵士の3分の1を損耗すればどんな位の高い指揮官が率いる軍でも降伏水準となる」
かといって誰にでも指揮官が務まるのか言えばそれもまた違うでしょう。
↑
市場主義的にどうしたってピラミッド型がイメージされる社会のヒエラルキー構造は単なる結果であって本質的には権威性はある種の結果論(幻想論)に過ぎず、現場サイドに個別具体的な希少性が発現すると(撃墜王と呼ばれるパイロットのように)現実問題ピラミッド構造の位置が(社会的地位)希少性(価値上位)を決定しない事がわかる。
単に「そういう社会構造モデルだ」というだけの話です。
↓
「清貧の武士」「昭和における貧乏な教師」などなど”逆パターン”で「幻想VS現実」を広告キャッチコピーのように打ち出される場合すらある。
※事実「下手すると過度な年功序列終身雇用の場合、人口構造ピラミッドと人事上のピラミッドは共通となるので、少子高齢化すると部下より管理職の方が数が多い逆ピラミッド構造となってしまう」←この場合「誰々を上位で”偉いってことにする”」という道徳的認知が(この場合選択されている道徳種は”年功”)、現実との間で合理性を保てない様子を表しており、共同幻想における道徳論はぶっちゃけた話「組織防衛のための方便である」ことをネタバレ証明している。
(確信犯的再選択の場合は例外)
■便宜上というか「社会の都合」により、『できちゃったピラミッド構造』の下部から見れば上部は「上司・上位」という建前にしておかないと、当該社会の幻想性(ほんとっぽさ)は壊れてしまうので秩序(ピラミッド構造が派生する上下関係を認知共有する道徳的伝播力・浸透圧→社会敵強迫力)が維持できなくなる→社会はその姿(イメージ)を保てなくなり有象無象の群れとなりカオス化する。
つまり、社会学的に社会構造などが当該個人の”認知”に負うのでは無く、「野球」であるとか「戦争」などの上位概念(当該社会の分類イメージ)そのものへの”理解”をベースにする場合だと、どちらか言えば急造の付け焼刃である『共同幻想』は方便に過ぎないのだから崩壊したところで社会そのものがカオス化崩壊となる事は無い。
(※当該個人が「俺は野球やろうと思って今日ユニフォーム着てきた」と意識自覚している場合、「今日の体育は野球ですよ」と号令をかける権威上位者がいなくても、人数さえそろえば『野球』というスポーツジャンル社会が開始する。「大人の草野球社会VS体育の授業としての社会性」という対比ですな。←実は「体育の評価に野球というスポーツが適当か?」の道徳性の根拠の部分は文部省の誰が決めてどんな理由なのか実のところ生徒にはわからないし考えもしない。→『共同幻想』が幻想であるわかりやすいとこです。これに対して大人の草野球は「俺にとって野球とは何か」なんてーな一家言(確信犯的選択の根拠)が各個人にある。)
(君主を偉いと思う上限関係の認知により国体が維持されるのでは無く→個人が”国家国民”などの概念を政治思想として理解していれば「幻想としての国体は崩壊しても国家社会が崩壊することは無い」)
■「誰が偉いとかの話」から→「役割分担と個人の選択だから」へシフトすることになります
↑
この対比は単純に当該社会の経済的・文明的発展度に比例します。
生きるのにカツカツで、文字の読み書きもできず「そもそも平均寿命的に誰もが大人になれるのでは無い」状況の時に、「俺にとって野球とは何か」なんて語れる状態がある筈も無く、社会に求められるのは「生きるか死ぬかかのボーダーライン」なので、当該社会の集合知でもある「この季節になれば村人全員で刈り取り開始」というリーダーの指示が道徳的にも絶対の正義として浸透していなければ”共同体”としてその村は崩壊する(議論の余地無くリーダーの指示は正義である)。
しかし、生産ロボットにより農業が自動化している社会の場合、もっぱらお茶を飲んだり詩歌を歌う日常を過ごす村人にとって”収穫祭”は文化であり、当該個人が「ナントカ村の収穫祭とは何か」の文化的理解の深度に社会の実存率は比例する(後者の社会において便宜的に派生するヒエラルキー構造上部の個人がリーダーの絶対的正義論をぶちかましても「単なる狂人」としてしか思われるだけである)。
■「状況に応じて価値論なんてものはうつろいゆくものだ」つー話です。
各個人が「俺にとって野球とは何か」なんて偉そうに語り出しているのであれば、もうその社会は「単独者化」(=できちゃったピラミッド構造における社会的地位や権威性の形骸化)へ踏み込んでいるっちゅう事です。
すっごく簡単に言うと、少子高齢化だとか人口の逆ピラミッド構造なんてのからして「豊かさの証」なので、「人口が逆ピラミッド構造になるだけでも大概の『共同幻想』は自然に崩壊しちゃうから」みたいな話です。
(※先進国の場合、見かけ上の労働市場だけを目安に所得分配すると社会実態との合理性が保持できず経済学的にマズイ話に(どこかに過剰在庫をかかえマネーのバトンリレーが滞る)なってくんです。うだうだ近代道徳論みたいな文句言って否定しようとしても高寿命高齢化で社会は「年金所得という部分的ベーシックインカム経済に自動的に突入せざるを得ない」のと同じっス。)
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コメント欄に問題となった同趣旨の投稿が続いたため、暫くの期間ブログのコメント欄トラックバックを閉鎖します。閲覧されている方には不自由となる部分もあるかと思いますがご了承ください。(再開までの期間は未定です)
詳しい経緯は下記リンク及びサイドバーコメントリンク表示の説明参照
コメント欄の削除があった件(関係障害について)
http://kagewari.seesaa.net/article/402054291.html
■私のミスで時折記事のコメント欄などが承認制になっていたりしますが(或いは昔の記事など)、現在のブログ運営方針が「コメント欄トラックバックの閉鎖」なので、仮に投稿があっても内容に関わらずもれなく削除となりますので宜しくお願いします。
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2015年06月05日
高齢化時代の『共同幻想』或いは『単独者』再選択
前回までのシリーズ引き継いでます。
現代社会特有の「新卒3年退職的な第4次反抗”みたいなもの”」、
場合によっては”モラトリアム”とも呼ばれるこの状況が、本来の思春期より(自分が生産労働年齢ということもあり)環境的に難しい一面がある事を説明してきました。
(※反抗期という心理状況は時限的「仮想単独者」のような状況が必要となるため、労働のように形骸的な社会適応に追い込まれる環境だと”過去の幻想論部分や強迫心理”への批判性が中途半端になったり、ズルズルと中途半端なまま「なんちゃって『共同幻想』適応選択」が継続し問題を先送りしてしまう。同時に選択の”中途半端度合い”を自分で見極めるのが難しい。←ですから「一度退職しよう」と考えるワケですが。)
世代的部分を考える上で、
現在高齢者層に突入始めているのは所謂団塊世代などです。
それより古い世代は(明治から昭和初期などの真性『共同幻想』適応系)、高齢者の生理的パフォーマンス低下に守られていたというか、「単純な話『共同幻想』崩壊プロセスなんてものにも鈍感なぐらい体力的にも能力的にも急速に老化していた」ので(重要なポイントは「欲求の低下」による力学的実効性も下がる点もある)、「最近の若いもののいう事はわからん」ぐらいで十分自我を温存可能でした。
しかし現代社会は医療技術や健康維持の知見や平均所得の高さから「死ぬ直前まで現役バリバリ」みたいなケース全く珍しくありません。←あえて呼ぶなら『アンチエイジング世代』。
しかも今後高齢者に突入するのは「学生紛争世代」でもある(現代的に言えば「意識高い系」)団塊世代です。
社会構造的に「退職」の形で、社会適応感覚から離脱して以降の高齢化時代の人生は「ひょっとすれば自分の生産労働期間より長いかも?」なんて事すら起こり得ます。
勿論の事社会に拡大していく『共同幻想』崩壊も認識していますし、そもそもが学生運動世代など日米安保大人の追認みたいな「白旗あげた歩留まり軍団」みたいな部分もあります(笑
この世代が大規模に「新卒3年退職的な第4次反抗的なモラトリアム」に順次突入する可能性ともて大きいです。
■しかも「新卒3年退職的な第4次反抗」を難しくしているポイントが「なにやかにやと就労をせかされる」という社会環境にあるのに対して、「現代社会のプレ・ベーシックインカム」とでも呼べる内容に進化している年金所得で働かなくてもいい環境にあるのですから尚更です。
昭和の時代なら「若い人の聞く音楽はわからない、ビートルズはうるさいだけだ」で何の問題も無いのですが、団塊世代の場合は「若いころは俺もバンドとかやってたことある」ぐらいの友人がひとりやふたりいたりします。既に高学歴世代でもあり「学生時代はやれサルトルだヴォーヴォワールだ」なんて話を気鋭のフォーク歌謡喫茶で語らったなんてサイケな経験もあるの世代です。
「世代間対立」なんてわかりやすい社会構造は容易に崩壊するでしょう。
■可能性としてですが、
社会的ハンデにより苦労する「新卒3年退職的な第4次反抗世代」より、
「いよいよプレ・ベーシックインカム年金生活」を迎える高齢者の『単独者』或いは『共同幻想選択』のがよっぽどエキセントリックに発現し時代の先端を行く可能性も捨て切れません。
しかもこの世代はお金持ちときてますから始末におえません。
(※シニア世代向けなどの「大学社会人コース」などにおいては、講師より生徒の方が実体験伴った知識が豊富で「授業などやり難くってしょうがない」などという現象も多発しているなんて話を耳にすることもあります。)
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現代社会特有の「新卒3年退職的な第4次反抗”みたいなもの”」、
場合によっては”モラトリアム”とも呼ばれるこの状況が、本来の思春期より(自分が生産労働年齢ということもあり)環境的に難しい一面がある事を説明してきました。
(※反抗期という心理状況は時限的「仮想単独者」のような状況が必要となるため、労働のように形骸的な社会適応に追い込まれる環境だと”過去の幻想論部分や強迫心理”への批判性が中途半端になったり、ズルズルと中途半端なまま「なんちゃって『共同幻想』適応選択」が継続し問題を先送りしてしまう。同時に選択の”中途半端度合い”を自分で見極めるのが難しい。←ですから「一度退職しよう」と考えるワケですが。)
世代的部分を考える上で、
現在高齢者層に突入始めているのは所謂団塊世代などです。
それより古い世代は(明治から昭和初期などの真性『共同幻想』適応系)、高齢者の生理的パフォーマンス低下に守られていたというか、「単純な話『共同幻想』崩壊プロセスなんてものにも鈍感なぐらい体力的にも能力的にも急速に老化していた」ので(重要なポイントは「欲求の低下」による力学的実効性も下がる点もある)、「最近の若いもののいう事はわからん」ぐらいで十分自我を温存可能でした。
しかし現代社会は医療技術や健康維持の知見や平均所得の高さから「死ぬ直前まで現役バリバリ」みたいなケース全く珍しくありません。←あえて呼ぶなら『アンチエイジング世代』。
しかも今後高齢者に突入するのは「学生紛争世代」でもある(現代的に言えば「意識高い系」)団塊世代です。
社会構造的に「退職」の形で、社会適応感覚から離脱して以降の高齢化時代の人生は「ひょっとすれば自分の生産労働期間より長いかも?」なんて事すら起こり得ます。
勿論の事社会に拡大していく『共同幻想』崩壊も認識していますし、そもそもが学生運動世代など日米安保大人の追認みたいな「白旗あげた歩留まり軍団」みたいな部分もあります(笑
この世代が大規模に「新卒3年退職的な第4次反抗的なモラトリアム」に順次突入する可能性ともて大きいです。
■しかも「新卒3年退職的な第4次反抗」を難しくしているポイントが「なにやかにやと就労をせかされる」という社会環境にあるのに対して、「現代社会のプレ・ベーシックインカム」とでも呼べる内容に進化している年金所得で働かなくてもいい環境にあるのですから尚更です。
昭和の時代なら「若い人の聞く音楽はわからない、ビートルズはうるさいだけだ」で何の問題も無いのですが、団塊世代の場合は「若いころは俺もバンドとかやってたことある」ぐらいの友人がひとりやふたりいたりします。既に高学歴世代でもあり「学生時代はやれサルトルだヴォーヴォワールだ」なんて話を気鋭のフォーク歌謡喫茶で語らったなんてサイケな経験もあるの世代です。
「世代間対立」なんてわかりやすい社会構造は容易に崩壊するでしょう。
■可能性としてですが、
社会的ハンデにより苦労する「新卒3年退職的な第4次反抗世代」より、
「いよいよプレ・ベーシックインカム年金生活」を迎える高齢者の『単独者』或いは『共同幻想選択』のがよっぽどエキセントリックに発現し時代の先端を行く可能性も捨て切れません。
しかもこの世代はお金持ちときてますから始末におえません。
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