『単独者』と言えば「言いも悪いも無く今自分が主体的に何をどう考えているか」となる(考えている内容は何でもよい)。
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ざっくり言えばそういう事で、
更に補完すると、
人類ヒト科と言えども動物なんで、生物学的にナンセンスな動機形成は「強迫や反動無しにあり得ない」のだから(もっぱらそういう構造が発生すんのが『共同幻想』社会なので)、単独者と言えばアナーキーで不道徳でアウトローなのかって言えば全然違うワケですよ。
(厳密に言えばアナーキストもカオスな無秩序を求めているのじゃないけどさ)
それこそシステムとしのて法治国家などというものは『共同幻想』社会におけるリスクを規制するためにあるようなもんで、強迫的思考や反動形成に鈍感な単独者は時に怠け者に見えるかもだけれども、馬鹿みたいな事は考えても、何がどうしたのやら猛烈に興奮してハイテンションで極端に走るって前提が”無い”ワケです。←ここ心理学的に。
そもそもが、先進国化(=過剰なモチベーションでもなんでも動員して食うという事の追及から開放されている)によって、『共同幻想』の合理性は失われる前提の話スからね。
そりゃ古代でも随分な賢人であれば(てかこの場合でも特権階級や旅人みたいな形で決して『共同幻想』社会のカタギな仕事など全くやってない御仁が大半だと思うが)、世界がおおよそ先進国と言えない時代であっても「単独者?」的思考は可能だっただろうし、勿論の事帝国主義だ奴隷制度だ貴族階級だなどと階層として「先進国側」にいた個人であれば、単独者的思考は可能だった事になる。
しかし、そりゃじゃあまりにも無茶な話なので当人も自分の思考やその状態を何か殊更特別な何とやらと考えてしまうのであり(言えば極端な上位階級所属だったりする恩恵なのだから)、
『先進国化』ってポイントの重要性は「いえいえその思考は特別なものでも無ければ特別である必要も無く、ひたすら如何に怠けるかって馬鹿みたいな事を考えるって水準だろう」みたいな平場に降りた論議になっていくだろうねって話が「単独者論」なのであり、
話自体特別難解な事もなければ、高尚な話でも無く、社会心理的に予測される「そうなったらこうなるのが話の流れだろ」程度の代物です。
1+1が2である単純さで→「単独者と民主主義の関係」には相関性があるし、
「行動選択の成果や結果にはなんの意味も無い」だとか「この世にどうでもよくないことなど無い」的な(意味付け的に極端な表現なんだけれど)、『自由意志(抑圧や強迫されない自意識)』の尊重ってか(法的に言えば人権ですか)、実存のポイントは「動機形成のところでその後なんてものはオマケですら無い」というですね、「とりあえず食う心配の無い先進国社会」を前提とする論議です。
その必要性から考えた場合の純度の高い『共同幻想』ってのは「村をあげての田植えや収穫」に他ならないのだからね(産業革命と機械の登場でこのバックグラウンドは様相変えるワケだよ)。
ごくごくオーソドックスな社会学の基礎で語られてもきた話で、
哲学的論議でもなんでも無いのです。
(社会がまだ近代やら封建社会やら階級社会の尾っぽと格闘していた時代であれば「哲学的に抗って論じた」なんてスタンスもあっただろうねって話で、これは話の内容が哲学的とかそういう意味では無くて、当時は社会のバックグラウンドが違っていたってオチです。結果論みたいなもんです。)
■もっとも重要な事は「全然たいした話では無い」ってことでありまして。
「自動車の生産が増えたので、自家用車が普及した」みたいな流れと同じです。
(無理やりフィクション演出込みで対比関係設定すると「自動車発明前は鉄道に乗る時にも階級に応じて一等席が予約できる人できない人がいて各個人はそのように所属社会との契約関係にあり、移動の自由と階級における自分のポジションには強い関係性があり、権威性評価における下層階級には海外に出る自由も無かった」←それ以前の『共同幻想』社会を逆算的に考えるとこんな設定があっても驚かない。→自家用車で好き勝手に自由な道を選べる時代との対比で考えれば「単独者」の台頭がわかりやすいと思う。)
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