保守派だったり、反動保守だったり、保守反動だったり、保守政治思想など様々ありますが、
文字通りそれは「質量保存の法則」じゃありませんがそのまんまなら「現状の保持し死守すする事」でしょう。
専ら『共同幻想』における原理原則のひとつです。
(※『単独者』はその反対に自立独立した”個”による改革だとかプログレだとかアナーキズムだとか実存主義やら、ザックリいえば現状そのものに対する反抗(『抗(あらがう)』)=自由度の発現って事が存在意義となる。)
しかし勿論のことですが、
保守でもその内面には「保守とはなんぞや」みたいな世界はあるんです。
「かくあるべし」でもいんだけれど、「現状に保守すべき状況が実現されているか」って大前提が関係するからです。
左翼政権の現状保守に奔走する保守党なんていませんから(笑
なんでもかんでも現状の死守ではありません。
保守すべき文化伝統などなど権威性の何がしかが選択されて初めて形になります。
これまた権威性と呼ぶと、何か偉い事や偉い人の事かと勘違いされますから補足しときますが、偏差値もある意味権威性認知です。つまり何らかの(取引や妥協の余地が無い)上位的基準なりをベース(根拠)にしているって話。
その反対に革新系だとかリベラルってのは「賭け率の高い理想論でもまいっか」な方向性であり、その根拠は論理性があれば十分で、論旨に権威性のあるバックグラウンドなどを必要としません(簡単に言えば「過去にその事例があったのか」などの正統性のある根拠(権威性認知)を明示する必要が無い)。
さて、そうなりますと保守とは「実現された実例のある何がしか」などを正統性根拠として明示したものでなければ合理性が無く「それこそ反動保守だ保守反動だなどの左翼憎しみたいな話が保守論になる筈もありません」、
仰々しい主張をするつもりが無いのであれば「前例主義」が基本だろうし、政治思想のように大風呂敷広げるのであれば「文化伝統」って事になるのでしょう。
この場合ですね重要なところは「上手くいっている状態や前例」なり「それが理想的な状況である文化」なりを説明できなくてはいかんのです。←ここんところの説明がひとつの論旨になっていないと保守とは言えません。
■極端な話、保守と言えども「かくあるべし」と現状に対する批判性を有していないと成立しないのであり、行動原理そのものは『抗(あらがう)』形となるので「権威に対してひたすら『被(こうむる)』とか媚びへつらうとかそういう話では無い」ワケで、
↑
ちょ〜っとここのニュアンスは難しいんですが、
原理原則重視の経済政策を行うからと言って目的が「縮小経済」では無い。みたいな事です。
ましてや経済に倫理性を求めて成長率がマイナスでもいんだみたいな経済学じゃ、そりゃもう経済学では無いですから。
(世俗主義に対する心情的な批判なんて話を持ち出すとややこやしくなりますが、神学論争は保守とは関係無い別次元の話って感じですかね。←その代りガリガリそっちに突っ込めが突っ込むほど話は権威主義の度合が強くなり「権威性との関係はわかりやすい」ですけどね。)
つまり保守主義ってのは「現実と理想の相克」を前提としており(これに反する『単独者』は「思惑と現状との差異」に興味や関心を置いている)、こんな事言うと保守主義な方に叱られるかもしれませんが、「保守こそ滅びの美学」みたいなところあるんですよ(だって高い確率で現実によりその理想は打破され続けていくんですからね)。
間違っても保守主義は「こうなれば必ず上手くいく」みたいな裏付けの無い模範解答では無いっちゅうことです。
保守やっている人だってガッチリやればやるほどそりゃ内面は大変なんで、
程度の問題として「いい加減なぐらいがちょうどよい」って事に関しては『共同幻想』だろうと『単独者』だろうと違いは無いって事でしょう。
だとするならば『歩留り論』ってのは「いい加減の研究みたいな現実的選択」なのかも知れません。
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