「それが本当に実現したらと思うと違うくね?」
↑
この一文でも足りるんですけどね(笑
まーそういう事ですよ。
だいたいがですね、人の思い描く「こんなんだったら」みたいな理想(その典型は宝くじの当選かもしれないが)、本当に実現すると想定外に困る事も多かったりします。
実現しない事を前提にこうなったらいいと思うのは「ある意味自己責任の担保が無く」無責任にいくらでも言えるのですが、本気でそれをやろうと思うと(実現が視野に入りますから)腰が引けるだとか、いやはやそこまで本気で思ってないからなんざ山ほどあるのです。
案外この構造は自我にとって大きなウィークポイントになっていて、
その典型例が「反動」でしょう。
「冷蔵庫の私のプリン食べたの誰?」って奴ですよ。
実際にそこに予定どおりあればあったで単なる日常の些末な話に過ぎないのに、『被(こうむる)』を刺激して「それを誰かが食べたんだろう」なんて話になると自我は反動現象に襲われます。
無意識に「もの凄く楽しみにして大事にしてきたのに」なんてな形でね。
反動が付くんですよ。
ここも「いつものとおりにそこにプリンが仮にあったとしても、日常の範囲内の些末な楽しみ程度」だったりしているもので、この場合も「仮に何も無くてそこにプリンがあったら本当のところどうなの?」を突き詰めると、たいした事無い話だったりするのです。
しかし人間の自我がこの時反動に揺すぶられるとですね、「無責任状態全開となり(仮にプリンがそこにあったならが仮説となるためいくらでも重大性を倍加できる)」興奮状態になる事もあります。
(現代社会のクレーマー現象やモンスターペアレントなんとかとかもほぼ全部コレ。)
言えばメンタル問題における『被(こうむる)』現象には頻繁に見られる現象です。
やれ何をされたから誰かを貶めてやりたりだとかの復讐のイメージなんかもですね、本当に実行されたら自分が後から困るようなスケールまで容易に倍増してしまうんです。
時々、「ちゃんと自分で俺のものとプリンに書いてないからだろ」なんて指摘を受けると更に激高したり逆効果にもなるのですが、この指摘はある意味方向性としては正しいものなんですよ。
状況を『被(こうむる)』=無抵抗、から『抗(あらがう)』=自分に選択権がある、方向に切り替えるからです。
「自分で俺のものと書いておくべきか?」←この行為は完全に自分の主導権の中にあり、その自我の姿勢も「攻撃的なスタンス」となりますんで、言うならそれは(誰かのプリン奪取に備える)抗いなんですね。
(これがまた、逆切れパターンの典型が「俺が悪いってのか」なんですけどね、、、)
さてそう考えると、
「自分で俺のものと書いておくべきか?」
突然ですね
「いやぁたかがプリンごときに名前書くとか大人げない」となるんですわ、
ある意味無茶苦茶ですわな、
「プリン激怒事件」なんてものの正体は、現象として『被(こうむる)』だと認知してしまうが故の反動現象でありまして、心底プリンが好きだった話じゃネーんです(笑
この辺って、日常生活の様々な不平不満の中に入り込んでますんで、
実はいうほど何て事無いなんてオチが多数でありまして、
岸田心理学で言うところの「どうでもよくないものなどこの世に無い」ってのもある意味『歩留り論』のキッカケとなる概念なんですよ。
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詳しい経緯は下記リンク及びサイドバーコメントリンク表示の説明参照
コメント欄の削除があった件(関係障害について)
http://kagewari.seesaa.net/article/402054291.html
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2014年11月29日
2014年11月21日
『保守』という概念
保守派だったり、反動保守だったり、保守反動だったり、保守政治思想など様々ありますが、
文字通りそれは「質量保存の法則」じゃありませんがそのまんまなら「現状の保持し死守すする事」でしょう。
専ら『共同幻想』における原理原則のひとつです。
(※『単独者』はその反対に自立独立した”個”による改革だとかプログレだとかアナーキズムだとか実存主義やら、ザックリいえば現状そのものに対する反抗(『抗(あらがう)』)=自由度の発現って事が存在意義となる。)
しかし勿論のことですが、
保守でもその内面には「保守とはなんぞや」みたいな世界はあるんです。
「かくあるべし」でもいんだけれど、「現状に保守すべき状況が実現されているか」って大前提が関係するからです。
左翼政権の現状保守に奔走する保守党なんていませんから(笑
なんでもかんでも現状の死守ではありません。
保守すべき文化伝統などなど権威性の何がしかが選択されて初めて形になります。
これまた権威性と呼ぶと、何か偉い事や偉い人の事かと勘違いされますから補足しときますが、偏差値もある意味権威性認知です。つまり何らかの(取引や妥協の余地が無い)上位的基準なりをベース(根拠)にしているって話。
その反対に革新系だとかリベラルってのは「賭け率の高い理想論でもまいっか」な方向性であり、その根拠は論理性があれば十分で、論旨に権威性のあるバックグラウンドなどを必要としません(簡単に言えば「過去にその事例があったのか」などの正統性のある根拠(権威性認知)を明示する必要が無い)。
さて、そうなりますと保守とは「実現された実例のある何がしか」などを正統性根拠として明示したものでなければ合理性が無く「それこそ反動保守だ保守反動だなどの左翼憎しみたいな話が保守論になる筈もありません」、
仰々しい主張をするつもりが無いのであれば「前例主義」が基本だろうし、政治思想のように大風呂敷広げるのであれば「文化伝統」って事になるのでしょう。
この場合ですね重要なところは「上手くいっている状態や前例」なり「それが理想的な状況である文化」なりを説明できなくてはいかんのです。←ここんところの説明がひとつの論旨になっていないと保守とは言えません。
■極端な話、保守と言えども「かくあるべし」と現状に対する批判性を有していないと成立しないのであり、行動原理そのものは『抗(あらがう)』形となるので「権威に対してひたすら『被(こうむる)』とか媚びへつらうとかそういう話では無い」ワケで、
↑
ちょ〜っとここのニュアンスは難しいんですが、
原理原則重視の経済政策を行うからと言って目的が「縮小経済」では無い。みたいな事です。
ましてや経済に倫理性を求めて成長率がマイナスでもいんだみたいな経済学じゃ、そりゃもう経済学では無いですから。
(世俗主義に対する心情的な批判なんて話を持ち出すとややこやしくなりますが、神学論争は保守とは関係無い別次元の話って感じですかね。←その代りガリガリそっちに突っ込めが突っ込むほど話は権威主義の度合が強くなり「権威性との関係はわかりやすい」ですけどね。)
つまり保守主義ってのは「現実と理想の相克」を前提としており(これに反する『単独者』は「思惑と現状との差異」に興味や関心を置いている)、こんな事言うと保守主義な方に叱られるかもしれませんが、「保守こそ滅びの美学」みたいなところあるんですよ(だって高い確率で現実によりその理想は打破され続けていくんですからね)。
間違っても保守主義は「こうなれば必ず上手くいく」みたいな裏付けの無い模範解答では無いっちゅうことです。
保守やっている人だってガッチリやればやるほどそりゃ内面は大変なんで、
程度の問題として「いい加減なぐらいがちょうどよい」って事に関しては『共同幻想』だろうと『単独者』だろうと違いは無いって事でしょう。
だとするならば『歩留り論』ってのは「いい加減の研究みたいな現実的選択」なのかも知れません。
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文字通りそれは「質量保存の法則」じゃありませんがそのまんまなら「現状の保持し死守すする事」でしょう。
専ら『共同幻想』における原理原則のひとつです。
(※『単独者』はその反対に自立独立した”個”による改革だとかプログレだとかアナーキズムだとか実存主義やら、ザックリいえば現状そのものに対する反抗(『抗(あらがう)』)=自由度の発現って事が存在意義となる。)
しかし勿論のことですが、
保守でもその内面には「保守とはなんぞや」みたいな世界はあるんです。
「かくあるべし」でもいんだけれど、「現状に保守すべき状況が実現されているか」って大前提が関係するからです。
左翼政権の現状保守に奔走する保守党なんていませんから(笑
なんでもかんでも現状の死守ではありません。
保守すべき文化伝統などなど権威性の何がしかが選択されて初めて形になります。
これまた権威性と呼ぶと、何か偉い事や偉い人の事かと勘違いされますから補足しときますが、偏差値もある意味権威性認知です。つまり何らかの(取引や妥協の余地が無い)上位的基準なりをベース(根拠)にしているって話。
その反対に革新系だとかリベラルってのは「賭け率の高い理想論でもまいっか」な方向性であり、その根拠は論理性があれば十分で、論旨に権威性のあるバックグラウンドなどを必要としません(簡単に言えば「過去にその事例があったのか」などの正統性のある根拠(権威性認知)を明示する必要が無い)。
さて、そうなりますと保守とは「実現された実例のある何がしか」などを正統性根拠として明示したものでなければ合理性が無く「それこそ反動保守だ保守反動だなどの左翼憎しみたいな話が保守論になる筈もありません」、
仰々しい主張をするつもりが無いのであれば「前例主義」が基本だろうし、政治思想のように大風呂敷広げるのであれば「文化伝統」って事になるのでしょう。
この場合ですね重要なところは「上手くいっている状態や前例」なり「それが理想的な状況である文化」なりを説明できなくてはいかんのです。←ここんところの説明がひとつの論旨になっていないと保守とは言えません。
■極端な話、保守と言えども「かくあるべし」と現状に対する批判性を有していないと成立しないのであり、行動原理そのものは『抗(あらがう)』形となるので「権威に対してひたすら『被(こうむる)』とか媚びへつらうとかそういう話では無い」ワケで、
↑
ちょ〜っとここのニュアンスは難しいんですが、
原理原則重視の経済政策を行うからと言って目的が「縮小経済」では無い。みたいな事です。
ましてや経済に倫理性を求めて成長率がマイナスでもいんだみたいな経済学じゃ、そりゃもう経済学では無いですから。
(世俗主義に対する心情的な批判なんて話を持ち出すとややこやしくなりますが、神学論争は保守とは関係無い別次元の話って感じですかね。←その代りガリガリそっちに突っ込めが突っ込むほど話は権威主義の度合が強くなり「権威性との関係はわかりやすい」ですけどね。)
つまり保守主義ってのは「現実と理想の相克」を前提としており(これに反する『単独者』は「思惑と現状との差異」に興味や関心を置いている)、こんな事言うと保守主義な方に叱られるかもしれませんが、「保守こそ滅びの美学」みたいなところあるんですよ(だって高い確率で現実によりその理想は打破され続けていくんですからね)。
間違っても保守主義は「こうなれば必ず上手くいく」みたいな裏付けの無い模範解答では無いっちゅうことです。
保守やっている人だってガッチリやればやるほどそりゃ内面は大変なんで、
程度の問題として「いい加減なぐらいがちょうどよい」って事に関しては『共同幻想』だろうと『単独者』だろうと違いは無いって事でしょう。
だとするならば『歩留り論』ってのは「いい加減の研究みたいな現実的選択」なのかも知れません。
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2014年11月14日
『考える』という機能
ふと思い出したのが一時随分問題提起された「東京地検特捜部シナリオありきの捜査」です。
これが『考える』というテーマを”考える”とっかかり的にわかりやすい事例じゃなかろうか、
事件捜査という典型的な事実究明の場において、タレ込みや断片情報から事件の全容(所謂『事象』)を認識する場合「なんらかのシナリオが無ければそもそも何があったのか捜査できない」のですよ。
(※ですから東京地検の捜査が問題となった時でもこれを批判していた郷原氏などの主張もシナリオありきが問題では無く、事実がシナリオと違った時の”撤退”判断の重要性を説いていた。)
時間の一部だけを切り離して『事象』としてひとつの理解に及ばそうとするとき(なかば映画の解釈というかテーマを考えるような話)、「それはこういうことだから」という(起承転結じゃないけれど)ひとつの理解に至るには、誰しもが「シナリオありきで考える」というプロセスを走らせているのだろうと(撤退などのダメ出しをできるのは自立独立的ポジションを持つ『自意識』だけ)、
さて「夢も希望もありゃしない」なんて言葉がありますが、
この言葉は夢や希望に繋がる「思考のネタが無い」という事です(夢や希望って”モノ”ではありませんから)。その自我がストックしているそれっぽい好感イベントのシナリオとして想定しているキッカケが無い。
本当に夢も希望も無いのでは”無く”、その思考が走らないって意味ですよ。
■たとえば『自由』の概念を考える場合、それは無軌道だとか混沌だとか無秩序を意味しません。
(フリーJAZZや創作舞踊やアナーキズムなんて〜な話から考えればさして難しくも無い話。)
音声で言えば空気抵抗であり、水泳で言えば水圧であり、歩行で言えば重力であり、なんらかの手応えのある空間なりに干渉だとか関与したり力を加えたりして←この時の動作が「自由に」と表現されたりされなかったりするって事。
観測される行為の「自由度」の事です。
まちがっても「お仕着せの幸運をあてがわれる」というような状況は自由と呼びません。
(それじゃお仕着せの概念に抗う事無く受容する事を間接的に強いられてるのと同じですから。)
つまり、苦も無く何でもできるみたいな状況には”自由度”は発生しません。
せいぜい考えらる事は(苦も無く退屈ななかで)「何でもできるのであれば、今何をして何を断念するか(聖徳太子じゃあるまいしできる事を常に同時並行で実行するとか不可能なんで)」この選択の自由が唯一の自我の仕事になる(逆に言えば同時に全てはできないという時間の限界・抵抗に対する関与だから”ギリギリここだけ労がある”となって自我の仕事しどころとなるワケだ)。
そりゃね、(不都合や抵抗や重力や水圧や時間の限界や空間の限界などに)抗(あらがう)図式の中で自由度なりを発現する働きかけ(仕事量)が実存であって、この時の選択に自己責任の担保(著作権)があるから実存証明となるのであって(注:できるようになるという意味では無い→「失敗の自由」)、専らその自由なる論議で重要なのは「自己責任の担保」の部分に干渉されたり侵害されたりする事の無いようにうんうんかんぬんって部分なワケだ。
つまり、ぶっちゃけた話「何かいい感じのキッカケになるナントカが無ければ夢も希望も無いって話ができる」なんて話は100%有り得ない。完璧な論理矛盾になる。
だとすると?
「これが僕の夢や希望だ」というシナリオってそもそもどうなってんの?と、そこを事前に(それこそ)”考える”ってな事を抜きに、現状の「夢や希望がどうしたこうした」を論じても全く意味が無いんですよ。
(地検の取り調べで何を言っても嫌疑が晴れないように)
「そもそもどういうシナリオなのか?」
この時、自由度なりがそのシナリオに観測される”何”が無いと、そのシナリオは「夢や希望どころか自らの自由の否定を同時に意味する」ってなことにもなります。
「何者かでありたい夢(或いはある筈だという思い)」と「何者かであろうとする自由」が相克関係にある場合、構造論的に「自由に夢や希望を語れない」人格となってしまいます。
↑
ここがひとつのレトリックになっていて、
「自由にそれを語る」って=「予めそれが容易に実現できない抵抗や水圧や重力が環境として存在しなければなりません」、「いやはやこの場合はこうするワケさ(こういう自由度の発現で実現しちゃうワケだ)」。
言い換えれば「予めそれが容易に実現できない抵抗や水圧や重力が環境条件として必要」なんです。
■ベタな言い方すると「戦功には戦場が必要である」。
そこから極論するならば、
「端的に自分にとって不利な状況は”機会論”的には幸運である(自由なりを発現する必要十分条件)」でなければならず、
(すっごくベタに言うと、空腹であればあるほどその食事がなんとやらって話ですよ。)
心理学的に自己だったり自我の介在や実存ってのは、
「さて、この時俺はどうすっか」という問いだったり、その場で「こうしちゃうワケなんだ」的な自由の発現が可能なシナリオの「それこそ自由度」ってものが無いと、考えるってプロセス(専ら自我の本業)が役立たずになってしまいます。
故に「夢も希望もありゃしない」なる言葉の裏書は「こうに決まっている」となります。
(BGMで「こうに決まってる」の歌がずっと聞こえているかのような)
これって郷原氏じゃありませんが、シナリオありきのダメなパターンの捜査とまったく同じです。
重要なポイントとして捜査本部がそういうスタンスだと「冤罪が乱発します」。
(この時「やれ『国策捜査』だ」などという批判も、親方日の丸じゃありませんがそういう認知に強く『共同幻想』権威主義が関与している事を証明している。)
つまり「こうに決まっている」論が成立するためには「権威主義的認知」が必須条件となる。
また、同時にですね「自由と権威は対立概念」なんですよ。
自由”度”の側から見れば、権威とは重力だとか圧力などの抵抗勢力環境なので、下世話な言い方すれば自らの自由度でナタ振り回す敵方って事ですわね、
(もちょっと上品に言えば、自由なルートで登山をする場合「王道ルートの地図」ってのは反抗すべき対象になる。)
つまり「こうでなきゃいけない」思考の場合、
「王道登坂ルート以外で登頂してもナントカ山攻略とは言えない」って事になってしまいます。
(※勿論ですが、登山の栄誉なんてのもは新しいルートの開発や無理と言われたコースからのチャレンジで評価されるものであって、定番ルートで登坂しても「いい経験しました」ではあるけれど自由度を発揮したチャンレジにはならない。)
つまり「こうでなきゃいけない」思考の場合、どこぞの管理職が意欲的チャレンジする部下を頭ごなしに否定するかのように「自分が自由度を発揮しそうな行為」は許されざる暴挙となるので、まかりならぬ行為になります。
自我が実存する主体的自由度ってものを頭から否定しているワケで、
そこに「夢や希望があるワケが無い」んですな。
(ここホントの話ですが「本当にそうなったら」の推定をした時、それは案外後味の悪い不快なものである場合すらあるんじゃないでしょうか。)
→続きを読む
これが『考える』というテーマを”考える”とっかかり的にわかりやすい事例じゃなかろうか、
事件捜査という典型的な事実究明の場において、タレ込みや断片情報から事件の全容(所謂『事象』)を認識する場合「なんらかのシナリオが無ければそもそも何があったのか捜査できない」のですよ。
(※ですから東京地検の捜査が問題となった時でもこれを批判していた郷原氏などの主張もシナリオありきが問題では無く、事実がシナリオと違った時の”撤退”判断の重要性を説いていた。)
時間の一部だけを切り離して『事象』としてひとつの理解に及ばそうとするとき(なかば映画の解釈というかテーマを考えるような話)、「それはこういうことだから」という(起承転結じゃないけれど)ひとつの理解に至るには、誰しもが「シナリオありきで考える」というプロセスを走らせているのだろうと(撤退などのダメ出しをできるのは自立独立的ポジションを持つ『自意識』だけ)、
さて「夢も希望もありゃしない」なんて言葉がありますが、
この言葉は夢や希望に繋がる「思考のネタが無い」という事です(夢や希望って”モノ”ではありませんから)。その自我がストックしているそれっぽい好感イベントのシナリオとして想定しているキッカケが無い。
本当に夢も希望も無いのでは”無く”、その思考が走らないって意味ですよ。
■たとえば『自由』の概念を考える場合、それは無軌道だとか混沌だとか無秩序を意味しません。
(フリーJAZZや創作舞踊やアナーキズムなんて〜な話から考えればさして難しくも無い話。)
音声で言えば空気抵抗であり、水泳で言えば水圧であり、歩行で言えば重力であり、なんらかの手応えのある空間なりに干渉だとか関与したり力を加えたりして←この時の動作が「自由に」と表現されたりされなかったりするって事。
観測される行為の「自由度」の事です。
まちがっても「お仕着せの幸運をあてがわれる」というような状況は自由と呼びません。
(それじゃお仕着せの概念に抗う事無く受容する事を間接的に強いられてるのと同じですから。)
つまり、苦も無く何でもできるみたいな状況には”自由度”は発生しません。
せいぜい考えらる事は(苦も無く退屈ななかで)「何でもできるのであれば、今何をして何を断念するか(聖徳太子じゃあるまいしできる事を常に同時並行で実行するとか不可能なんで)」この選択の自由が唯一の自我の仕事になる(逆に言えば同時に全てはできないという時間の限界・抵抗に対する関与だから”ギリギリここだけ労がある”となって自我の仕事しどころとなるワケだ)。
そりゃね、(不都合や抵抗や重力や水圧や時間の限界や空間の限界などに)抗(あらがう)図式の中で自由度なりを発現する働きかけ(仕事量)が実存であって、この時の選択に自己責任の担保(著作権)があるから実存証明となるのであって(注:できるようになるという意味では無い→「失敗の自由」)、専らその自由なる論議で重要なのは「自己責任の担保」の部分に干渉されたり侵害されたりする事の無いようにうんうんかんぬんって部分なワケだ。
つまり、ぶっちゃけた話「何かいい感じのキッカケになるナントカが無ければ夢も希望も無いって話ができる」なんて話は100%有り得ない。完璧な論理矛盾になる。
だとすると?
「これが僕の夢や希望だ」というシナリオってそもそもどうなってんの?と、そこを事前に(それこそ)”考える”ってな事を抜きに、現状の「夢や希望がどうしたこうした」を論じても全く意味が無いんですよ。
(地検の取り調べで何を言っても嫌疑が晴れないように)
「そもそもどういうシナリオなのか?」
この時、自由度なりがそのシナリオに観測される”何”が無いと、そのシナリオは「夢や希望どころか自らの自由の否定を同時に意味する」ってなことにもなります。
「何者かでありたい夢(或いはある筈だという思い)」と「何者かであろうとする自由」が相克関係にある場合、構造論的に「自由に夢や希望を語れない」人格となってしまいます。
↑
ここがひとつのレトリックになっていて、
「自由にそれを語る」って=「予めそれが容易に実現できない抵抗や水圧や重力が環境として存在しなければなりません」、「いやはやこの場合はこうするワケさ(こういう自由度の発現で実現しちゃうワケだ)」。
言い換えれば「予めそれが容易に実現できない抵抗や水圧や重力が環境条件として必要」なんです。
■ベタな言い方すると「戦功には戦場が必要である」。
そこから極論するならば、
「端的に自分にとって不利な状況は”機会論”的には幸運である(自由なりを発現する必要十分条件)」でなければならず、
(すっごくベタに言うと、空腹であればあるほどその食事がなんとやらって話ですよ。)
心理学的に自己だったり自我の介在や実存ってのは、
「さて、この時俺はどうすっか」という問いだったり、その場で「こうしちゃうワケなんだ」的な自由の発現が可能なシナリオの「それこそ自由度」ってものが無いと、考えるってプロセス(専ら自我の本業)が役立たずになってしまいます。
故に「夢も希望もありゃしない」なる言葉の裏書は「こうに決まっている」となります。
(BGMで「こうに決まってる」の歌がずっと聞こえているかのような)
これって郷原氏じゃありませんが、シナリオありきのダメなパターンの捜査とまったく同じです。
重要なポイントとして捜査本部がそういうスタンスだと「冤罪が乱発します」。
(この時「やれ『国策捜査』だ」などという批判も、親方日の丸じゃありませんがそういう認知に強く『共同幻想』権威主義が関与している事を証明している。)
つまり「こうに決まっている」論が成立するためには「権威主義的認知」が必須条件となる。
また、同時にですね「自由と権威は対立概念」なんですよ。
自由”度”の側から見れば、権威とは重力だとか圧力などの抵抗勢力環境なので、下世話な言い方すれば自らの自由度でナタ振り回す敵方って事ですわね、
(もちょっと上品に言えば、自由なルートで登山をする場合「王道ルートの地図」ってのは反抗すべき対象になる。)
つまり「こうでなきゃいけない」思考の場合、
「王道登坂ルート以外で登頂してもナントカ山攻略とは言えない」って事になってしまいます。
(※勿論ですが、登山の栄誉なんてのもは新しいルートの開発や無理と言われたコースからのチャレンジで評価されるものであって、定番ルートで登坂しても「いい経験しました」ではあるけれど自由度を発揮したチャンレジにはならない。)
つまり「こうでなきゃいけない」思考の場合、どこぞの管理職が意欲的チャレンジする部下を頭ごなしに否定するかのように「自分が自由度を発揮しそうな行為」は許されざる暴挙となるので、まかりならぬ行為になります。
自我が実存する主体的自由度ってものを頭から否定しているワケで、
そこに「夢や希望があるワケが無い」んですな。
(ここホントの話ですが「本当にそうなったら」の推定をした時、それは案外後味の悪い不快なものである場合すらあるんじゃないでしょうか。)
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2014年11月08日
配線が多過ぎ
モバイラーの性なのかこの時代だから仕方がないのか「やたらとPC回りの配線が多い」。
特にUSBケーブルがあれがこれ用、こっちはアレの充電用などと多数分岐しているものだから我ながら「この配線どの配線?」ちょっとやそっとじゃわからない事になっている。
元来システムのバックアップやらは外付けHDDに取っておかいなと意味が無かったりするので(デスクトップで複数HDDを内蔵できれば話は別なんだけれど)、余計に配線が増えているって側面もあるのだがLANが無線でまだよかった正直思う。
これもひとつの内的ネットワークだと考えると人間の脳内の「関連付け」なんていったいどんな事になっているやら想像もできない。
PCにおいてもタスクバーの「ハードウエアを安全に取り出す」実行してもどこやらのプログラムが使用中で切断できませんなんてワーニングに頻繁に遭遇しますが、そらね人間の脳にしても自意識が「この関連付けは関係が無いから」などと考えても容易な事でスパッと割り切れるものじゃなかったりするワケで(ここはある意味何が起動してグダグダ話がややこやしくなるのか配線が乱雑でよくわからんって事もあるだろうと)、
誰もが心理学の知識ある筈も無く、心理学の知識があったとしても「これどうなってんの」と気合入れて配線を確認しないとわからないもんです。
実際の話最初の関連付けなんてのはその都度場当たり的なんですから、いちいち覚えているっつーか自意識マターでも無いので自覚が無くて普通なんであって、妙に自覚されている方がおかしいのかも知れない。
「ひらめき」やら「思い付き」なんてのもですね、これ単に自分の脳内の関連付けを自覚していないからそういう認識になるだけの話であって、脳の中の人は適当な事をしている覚えは無いのではなかろうかと思います(存外に「今頃きがついたのか」とか呆れているのかも知れない)。
単純な事象の認識にしたって、何のジャンルの項目としてそれを見るのかで認識される内容は全然違ってきますから極論「正しい認識」なんて概念は”無い”のであり、
心理学的には「かくかくしかじかで偏向の何が観測されるから、そのエキセントリックな現象はアレでしょう」みたいな問題点の観測にしか意味が無いとも言える。
(言うならばこの問題点の認知も本人にその意識が無いのであれば、問題点と認識されないのだから仮に心理学的に偏向が証明されるのだとしても、認識されなければそのままでいいってのが筋論。)
主体的にそれをどう見るのかって部分は自由に関わる事だからその人の個性なんであって、そこにやれ何が正しい的な答えがある方がおかしい。
そりゃね、電気製品なら「ちゃんとアンペア見てね」みたいな正しさってのはありますが、外付けハードディスクのドライブレターがFだろうがHだろうが好きに選べばいいのは事実だからね。
言うならば人間は自分でHドライブにしまった情報を探そうとDを探しまくってまったく見つからないんですよなんて事を頻繁に繰り返しているのだろうから、現代社会が『単独者化』により今以上に個性化・多様化が進んでいく中で電脳媒体の助け無しにインデックスってのかな、自分の脳内情報の整理ができるのかって聞かれると、さてどうなんだろうと思うところありますね。
昔は「必ずポケットにはメモ帳」って保管をしていたのだから現代の電脳化が何か危険だとか問題だとかそういう認識はありません。
原始時代だって道案内の看板ぐらいあっただろうし、地図を書く奇特な人の登場でそりゃね随分と多数の人が行動半径を拡大させただろうから脳内情報の整理をひたすら自力で構築しようと努力するとかってのは方向性として違うでしょうよ。
便利なツールがあるのならそれを使えばいんです。
現代社会におけるリスクって点で言えば、紙媒体と違ってバッテリーが切れたら使い物にならないだとかシステム壊れたら大変だみたいな機器の性能上の弱点がまだまだ残っているよってだけの話です。
(※将来的にはリードオンリーでDATAだけは何らかの方法でサルベージできるみたいな仕組みがデフォルトになるだろうから保全性の点で紙のメモ帳とそれほど違いも無くなるでしょ。メモ帳だって紛失したら一発で終わりなんだから。)
しかし考えてみると、
『共同幻想』崩壊を経て時代が『単独者化』へ進むのだとしたら、
「配線が多過ぎ」みたいな形で場当たり的多様化がより脳内で拡大していくのかも知れない。
確かに将来の電脳媒体ってのは「これはここでいいの?この情報は何関連?ここに格納するのは違うくない?」などと口うるさい機能を実装するのかもしれんね。
検索キーワードの補助なんとかじゃないけどさ、
ブログ記事なんかのテーマだとかジャンルだとかの詳細設定なんか半ば自動化してれないかねって思う事がある(実際各検索サイトは自立的に仕分けしとるんでしょうに)、それは自動化というよりバックグラウンドで勝手に起動する「無意識化」って話になるんかな。
AIなんて代物は「ど忘れするぐらいじゃないと本物とは言えない」っ事なんかも知れない。
(それじゃ全然便利なものじゃないだろうって話になるかもだがww、なんとなくだけれど最強のAIはパッと見でわかる高性能さが売りに”ならない”ものとして登場するような気もする。)
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特にUSBケーブルがあれがこれ用、こっちはアレの充電用などと多数分岐しているものだから我ながら「この配線どの配線?」ちょっとやそっとじゃわからない事になっている。
元来システムのバックアップやらは外付けHDDに取っておかいなと意味が無かったりするので(デスクトップで複数HDDを内蔵できれば話は別なんだけれど)、余計に配線が増えているって側面もあるのだがLANが無線でまだよかった正直思う。
これもひとつの内的ネットワークだと考えると人間の脳内の「関連付け」なんていったいどんな事になっているやら想像もできない。
PCにおいてもタスクバーの「ハードウエアを安全に取り出す」実行してもどこやらのプログラムが使用中で切断できませんなんてワーニングに頻繁に遭遇しますが、そらね人間の脳にしても自意識が「この関連付けは関係が無いから」などと考えても容易な事でスパッと割り切れるものじゃなかったりするワケで(ここはある意味何が起動してグダグダ話がややこやしくなるのか配線が乱雑でよくわからんって事もあるだろうと)、
誰もが心理学の知識ある筈も無く、心理学の知識があったとしても「これどうなってんの」と気合入れて配線を確認しないとわからないもんです。
実際の話最初の関連付けなんてのはその都度場当たり的なんですから、いちいち覚えているっつーか自意識マターでも無いので自覚が無くて普通なんであって、妙に自覚されている方がおかしいのかも知れない。
「ひらめき」やら「思い付き」なんてのもですね、これ単に自分の脳内の関連付けを自覚していないからそういう認識になるだけの話であって、脳の中の人は適当な事をしている覚えは無いのではなかろうかと思います(存外に「今頃きがついたのか」とか呆れているのかも知れない)。
単純な事象の認識にしたって、何のジャンルの項目としてそれを見るのかで認識される内容は全然違ってきますから極論「正しい認識」なんて概念は”無い”のであり、
心理学的には「かくかくしかじかで偏向の何が観測されるから、そのエキセントリックな現象はアレでしょう」みたいな問題点の観測にしか意味が無いとも言える。
(言うならばこの問題点の認知も本人にその意識が無いのであれば、問題点と認識されないのだから仮に心理学的に偏向が証明されるのだとしても、認識されなければそのままでいいってのが筋論。)
主体的にそれをどう見るのかって部分は自由に関わる事だからその人の個性なんであって、そこにやれ何が正しい的な答えがある方がおかしい。
そりゃね、電気製品なら「ちゃんとアンペア見てね」みたいな正しさってのはありますが、外付けハードディスクのドライブレターがFだろうがHだろうが好きに選べばいいのは事実だからね。
言うならば人間は自分でHドライブにしまった情報を探そうとDを探しまくってまったく見つからないんですよなんて事を頻繁に繰り返しているのだろうから、現代社会が『単独者化』により今以上に個性化・多様化が進んでいく中で電脳媒体の助け無しにインデックスってのかな、自分の脳内情報の整理ができるのかって聞かれると、さてどうなんだろうと思うところありますね。
昔は「必ずポケットにはメモ帳」って保管をしていたのだから現代の電脳化が何か危険だとか問題だとかそういう認識はありません。
原始時代だって道案内の看板ぐらいあっただろうし、地図を書く奇特な人の登場でそりゃね随分と多数の人が行動半径を拡大させただろうから脳内情報の整理をひたすら自力で構築しようと努力するとかってのは方向性として違うでしょうよ。
便利なツールがあるのならそれを使えばいんです。
現代社会におけるリスクって点で言えば、紙媒体と違ってバッテリーが切れたら使い物にならないだとかシステム壊れたら大変だみたいな機器の性能上の弱点がまだまだ残っているよってだけの話です。
(※将来的にはリードオンリーでDATAだけは何らかの方法でサルベージできるみたいな仕組みがデフォルトになるだろうから保全性の点で紙のメモ帳とそれほど違いも無くなるでしょ。メモ帳だって紛失したら一発で終わりなんだから。)
しかし考えてみると、
『共同幻想』崩壊を経て時代が『単独者化』へ進むのだとしたら、
「配線が多過ぎ」みたいな形で場当たり的多様化がより脳内で拡大していくのかも知れない。
確かに将来の電脳媒体ってのは「これはここでいいの?この情報は何関連?ここに格納するのは違うくない?」などと口うるさい機能を実装するのかもしれんね。
検索キーワードの補助なんとかじゃないけどさ、
ブログ記事なんかのテーマだとかジャンルだとかの詳細設定なんか半ば自動化してれないかねって思う事がある(実際各検索サイトは自立的に仕分けしとるんでしょうに)、それは自動化というよりバックグラウンドで勝手に起動する「無意識化」って話になるんかな。
AIなんて代物は「ど忘れするぐらいじゃないと本物とは言えない」っ事なんかも知れない。
(それじゃ全然便利なものじゃないだろうって話になるかもだがww、なんとなくだけれど最強のAIはパッと見でわかる高性能さが売りに”ならない”ものとして登場するような気もする。)
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2014年11月04日
継続的に更新し続ける夢だとか
時折ある「定番の夢」ってのは誰にでも存在するでしょう。
フロイド的にはかなり有名な夢判断でしたが、現代においてはそれほど重要視されておらず、もっぱらその意味は無意識的な脳の活動の証明的なものであり、すっかり無意識領域の活動に疑問を挟む論議の無くなった現代においてはさしたる意味が無くなっているという見方もできるでしょう。
ざっくり夢の機能としては(昼の名残と呼ぶ場合もありますが)睡眠を継続するために懸案事項をうっかり現在進行形であるように見せるってシミュレーション効果狙いのような脳活動だろうと考えられています。(よって懸案事項の度が過ぎると適当な処理を超えてしまい本当に覚醒してしまう。)
何もこの無意識的機能は特別なものではなく、覚醒中も懸案事項に直面すると特別意図していなくても「あんなことやこんなことか」と半ば自動的に自我は”想定”のような活動を始めます(不安もこの活動に含まれると思っていいでしょう)、「企画中の行動の過去事例とのDATAベース突合せ」みたいな活動ですわな(生物としては成功確率やリスクのある過去事例など見落とすといかんから)、
そこで、寝る前にも懸案事項が継続中で残ったままだと夢のネタになるっちゅう訳です。
睡眠中も(PCで言えばデスクトップに相当する)自意識がダウンしているだけで脳は活動を続けていますからね。
フロイドに話を戻しますが、
やれ19世紀など『共同幻想』全盛ともなれば尚の事、この夢から象徴化も観測できるってものですが、現代のように個人のイメージが『単独者化』により多様化してきた『共同幻想』崩壊時代においては、典型的な象徴化を前提に話を進めるのもどうかと思いますし(確かにメンタル問題の元ネタは『共同幻想』なので象徴化そのものを否定するものではありませんが)、想像のバリエーションが多い無意識なら夢の内容も多様化するって事になるのかも知れません。
さて、個人的な話になるんだが、
思えばかなり長期間TVドラマシリーズのように”その後の展開が続きとして進行している夢”を結構見るんだなこれがww
あまりに長期継続しているため、睡眠中の俺はそれが現実と夢物語の区別が付かず、覚醒してから「あれこれって現実ネタじゃなくて夢だっけ」と調べたりする事まであるんですね。
随分しっかり構成された夢で、そんな継続夢の中には「どこやらの会社勤務シリーズ」みたいなものがあったりで、時系列そのままに「今度はこんな展開になった」みたいな形で”裏現実”みたいに進行しちゃったりするのです。
笑い話ですが、トイレに覚醒した後「おっとっとそっちの世界に戻らないと」みたいな調子で寝に入るなんて現象の経験もあります。
と、このような事考えているとふと思うんですが、
前述の覚醒中にも夢機能的な無意識の活動はあるってところの絡みで言えば、
「認知されている現実は、色なども結局光の反射を脳内処理しているだけって話同様に、かなり演出効果込みで”処理”されており(ナントカ演出みたいな)、脳内で効果音のひとつも出ていようか」ってぐらいいい加減なものなのだろうと思ってしまいます。
(※とにかく驚くのがほとんどの人がニュース映像などにBGMが付く演出が行われていてもリアリティー的違和感を表明したりしないってところです。)
つまり「随分長い事このシリーズが夢の中だけで展開されている”現実”だと知らなかった夢」なんて馬鹿みたいな話が成立する背景ってのは、
いやいや覚醒中に私が認知している”世界”なんてものからして大概な精度ですよって、
そういうオチなんでしょう。
あまりにいい加減なので、ドキュメンタリー映画などリアリティーを詰めた”演出モノ”を観る方がよっぽど正確性が高いなんて思ってしまうのであり、
たとえばですよ。
こんなネタを考えてみましょうか。
某BBCなんか制作のドキュメンタリー映像を上映しているとします。
その映像に様々なナレーションをくっつけてみる。
勿論全く裏付けの無い適当なナレーションバージョンなども作成。
↑
誰しも歴史考証なども無いいい加減でナレーターのアドリブ思い付きのバージョンを見ようとは思いませんわね、てか興味本位でそのバージョンを見たとしても「いやはや随分いい加減な内容じゃないかこれ」なんて言いながら観るでしょう。
しかし、
私達個人の認知する世界って、この『誰しも歴史考証なども無いいい加減でナレーターのアドリブ思い付きのバージョン』なんですよ(笑
「俺の認知している現実世界なんてね、どれほどの精度かなんで怪しいんだこれが」
ある意味、この認知のが合理的だって話なんですよね。
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ざっくり夢の機能としては(昼の名残と呼ぶ場合もありますが)睡眠を継続するために懸案事項をうっかり現在進行形であるように見せるってシミュレーション効果狙いのような脳活動だろうと考えられています。(よって懸案事項の度が過ぎると適当な処理を超えてしまい本当に覚醒してしまう。)
何もこの無意識的機能は特別なものではなく、覚醒中も懸案事項に直面すると特別意図していなくても「あんなことやこんなことか」と半ば自動的に自我は”想定”のような活動を始めます(不安もこの活動に含まれると思っていいでしょう)、「企画中の行動の過去事例とのDATAベース突合せ」みたいな活動ですわな(生物としては成功確率やリスクのある過去事例など見落とすといかんから)、
そこで、寝る前にも懸案事項が継続中で残ったままだと夢のネタになるっちゅう訳です。
睡眠中も(PCで言えばデスクトップに相当する)自意識がダウンしているだけで脳は活動を続けていますからね。
フロイドに話を戻しますが、
やれ19世紀など『共同幻想』全盛ともなれば尚の事、この夢から象徴化も観測できるってものですが、現代のように個人のイメージが『単独者化』により多様化してきた『共同幻想』崩壊時代においては、典型的な象徴化を前提に話を進めるのもどうかと思いますし(確かにメンタル問題の元ネタは『共同幻想』なので象徴化そのものを否定するものではありませんが)、想像のバリエーションが多い無意識なら夢の内容も多様化するって事になるのかも知れません。
さて、個人的な話になるんだが、
思えばかなり長期間TVドラマシリーズのように”その後の展開が続きとして進行している夢”を結構見るんだなこれがww
あまりに長期継続しているため、睡眠中の俺はそれが現実と夢物語の区別が付かず、覚醒してから「あれこれって現実ネタじゃなくて夢だっけ」と調べたりする事まであるんですね。
随分しっかり構成された夢で、そんな継続夢の中には「どこやらの会社勤務シリーズ」みたいなものがあったりで、時系列そのままに「今度はこんな展開になった」みたいな形で”裏現実”みたいに進行しちゃったりするのです。
笑い話ですが、トイレに覚醒した後「おっとっとそっちの世界に戻らないと」みたいな調子で寝に入るなんて現象の経験もあります。
と、このような事考えているとふと思うんですが、
前述の覚醒中にも夢機能的な無意識の活動はあるってところの絡みで言えば、
「認知されている現実は、色なども結局光の反射を脳内処理しているだけって話同様に、かなり演出効果込みで”処理”されており(ナントカ演出みたいな)、脳内で効果音のひとつも出ていようか」ってぐらいいい加減なものなのだろうと思ってしまいます。
(※とにかく驚くのがほとんどの人がニュース映像などにBGMが付く演出が行われていてもリアリティー的違和感を表明したりしないってところです。)
つまり「随分長い事このシリーズが夢の中だけで展開されている”現実”だと知らなかった夢」なんて馬鹿みたいな話が成立する背景ってのは、
いやいや覚醒中に私が認知している”世界”なんてものからして大概な精度ですよって、
そういうオチなんでしょう。
あまりにいい加減なので、ドキュメンタリー映画などリアリティーを詰めた”演出モノ”を観る方がよっぽど正確性が高いなんて思ってしまうのであり、
たとえばですよ。
こんなネタを考えてみましょうか。
某BBCなんか制作のドキュメンタリー映像を上映しているとします。
その映像に様々なナレーションをくっつけてみる。
勿論全く裏付けの無い適当なナレーションバージョンなども作成。
↑
誰しも歴史考証なども無いいい加減でナレーターのアドリブ思い付きのバージョンを見ようとは思いませんわね、てか興味本位でそのバージョンを見たとしても「いやはや随分いい加減な内容じゃないかこれ」なんて言いながら観るでしょう。
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