(最初に書いておきますが、今回ですね「書けば書くほど意味の分からない話」になってますww、その心の準備の出来ない方はスルーしてください。ほとんど実験の域を超えない原稿です。)
前回の補足です。
医師の心理学サークルなどで目的も無いまま自己分析すると『共同幻想』適応者は事実上”依存型”でもあるため『共同幻想』の分析で拠り所となる帰属性アイデンティファイが大崩壊するリスクなんとやらの話に触れましたが、更に突っ込んでこの状況を解説すると「急性のメンタルリスク」という論議になります。=突発的に自我が破綻する可能性という話です。
これに対し、メンタル問題を既に抱えている自我は分析等の過程を経ても急性状態は論理的に発生しません。ある意味その耐性を獲得しているとも言えるのであり(そこには何らかの状況に対する自覚はあって「疑問の余地なく依存性の存在すら視野にもないという状況には無い」ので)ある意味「無問題に『共同幻想』依存型の社会適応しているパターンのような急性崩壊リスクが無い」という事です。
(分析過程においてもメンタル問題がある場合なら、たじろぐこと無くガンガン防衛行動が発動されるケースの方が珍しくありません。)
てか急性崩壊が起きるリスクが存在する自我は極論すると依存の最適化が成立しているのだから、慢性的なメンタル問題に至る事は無い。言い換えればメンタル問題が存在する=急性崩壊に対する耐性があるという話です。
(勿論現象として災害や戦禍などのような急性の事象というような突発性のものは誰にでもあるリスクなので例外とします。)
ある意味メンタル問題のある自我の特徴に”高い論理性”が挙げられるのは、表現は適当じゃ無いかも知れませんが矛盾する問いに恒常的に対峙する中で鍛えられている部分あるワケです(ここが問題を恒常化させてしまう原因のひとつでもあるんですが)、そこが結果としてメンタル問題を抱える自我は「(当事者には自覚は無いのですが)社会適応型自我に対し相対強者である」所以でもあるんです。
なんだかこんな話をすると「自我の最適化された依存状態なんて表現を聞くと『共同幻想』適応は随分と脆弱なメンタルって事になるんだろうか」と思われる方いらっしゃるかもですが、ある意味「そのとおり」なんです。
あくまで”ある意味”ですけれど。
(現代社会に歩留り論的余地の無い『共同幻想』鵜呑み的な適応自我って滅多にありませんから。どこかに疑問含めて感じつつも反抗期プルーフで『歩留り的』に選択されるのが現代社会の『共同幻想』適応となるため=事実上崩壊予備軍。)
そんなワケで”ある意味”ですが『共同幻想』適応自我には固有の脆弱性があるので、保守政治家などが国家の一大事などの時「社会が大混乱になってしまうのでこの情報は公開できない隠蔽するべきだ」なんて判断の根拠となるんです。
保守政治家の目には「個の存在と依存関係にある社会秩序(幻想性・神話性)は一蓮托生であり不可分のもの」と写っているからです(戦前で言えば『国体』などの概念がそうでした)。
では「なんだかんだと歩留り的なアイデンティティー論も依存的なものになるのだろうか?」とくれば、そこはそういう意味にはなりません。
前回説明したとおりで、本来歩留りってのは『選択的』あるいは『確信犯的に状況などに対し受容的なもの』だったりするので(もろに依存が成立するための条件はそのスタンスが『被(こうむる)』場合となるため)、諸行無常的とでも言いますか(笑、もっと世俗的に打算やネタバレも織り込みつつなものです。
(ここが昭和のドラマにおける反抗期青少年の台詞「大人は汚い」なんて台詞のポイントであり、勿論打算的世俗的であるところが『歩留り』論のキモです。社会学で言うところのゲゼルシャフトであり、イスラム社会などでは世俗主義と呼ばれるものです。)
端的に言えば「同じ保守でも戦前より戦後の保守の方が(歩留り選択率も高くなり)耐性がある」ちゅうワケであります。「強い保守」って意味じゃないですよ、その反対に『共同幻想』崩壊耐性があるって方向の意味ね。
皮肉な事に、保守政治家の判断とは”真逆”で『選択的アイデンティティー』は当人にとって強固なものだと理解されているため(だから無理に抵抗せずここは歩留りでいいかって判断しているのだから)、少々のネタバレや『共同幻想』の崩壊に備えて保守が必要だとも思ってません。
「そういう脆弱なものでは無い(俺にはかなわない)」という理解が織り込まれているからです。
なんだか矛盾しているように思いますが、相対論なんでそういう話になるんです。
聖域的認識は後退しているが、普遍的認識が高まるって言うのかな。
それは=幻想性や神話性の後退ですよね。
ですから現代社会の場合には「自己分析には急性崩壊のリスクがある」って言うほどの話でも無いのだろうと思うんですけどね。
(つまりメンタル問題における耐性部分も、強固にそれを防衛しようとする事をもって『選択的ではない』証明となる。中段の保守政治家の誤解と流れ的には同じですね。)
「それじゃ保守政治家にはメンタル問題があるって事なのか?」となるかと思いますが、
ある意味あたってます。
どこの哲学だったか、社会学だったか忘れちゃいましたが「政治思想」なんてドグマは所詮なんちゃらかんちゃらだって論議がありまして(端的に言えば新興宗教みたいな眉唾もの)、政治思想全体をそこまで言い切っちゃうのはどうかと思いますが「そういう側面もある」のは確かでしょう。
先ほどのイスラム社会における世俗主義でいれば、前述の保守政治家の振る舞いは原理主義者のそれと同じという事ですね。
(皮肉な事に原理主義者の振る舞いは神話性を保守しようとするあまり、その行動が保守すべきなんとやらに対する普遍性に疑問を証明している。)
↓
ちょ〜っとめんどくさい話をします。
「乱高下感」
えとですね、『歩留り』ってのが選択である場合当事者はその”何か”を強固なものだと理解しているって話をしましたね。或いは諸行無常的だとか「普遍性フラグ」的に。
だとすると?その概念は「普遍なのだから上にいったり下がったりなどの騒ぎが起きない」となります。
仮に『歩留り』的概念だと思っているものが「乱高下感」を伴って興奮を演出するようであれば、そりゃね〜(相対論における脆弱なので言論統制しても保守すべしみたいな着想と同様に)「その概念のナントカ性の話では無く、その関係性が依存的でありなんとも危なっかしいからである」って話なんですよ。こいつが前述の「普遍性に対する疑問や不安」の正体。
結局テーマになってる概念の話じゃなくて、依存性など内容つーか「選択性の有無など」スタンスの問題です。
(いいかえりゃ「乱高下感」を躁鬱と訳してもいいでしょう。)
勿論『被(こうむる)』だとそれは不安を呼び、『抗(あらがう)』だと一見概念に対して不遜な振る舞いに見えるんだけれど不安は発生しない(実は普遍性を信認している)。
(やっぱこの話はどうやっても難解になっちゃんですよ、うーんとここもパスカルの賭けみたいな不条理込みになってるから、わかりやすく説明するのは無理ってもんです。)
多分、概念の普遍性を相対的に高めているのは自らの実存性なんですよ。
(概念の普遍性ってのは一種の鏡像論なんだと、)
哲学における「歴史の終わり論」じゃありませんが、
「真性保守と真性左翼は多分友人になれる。(行きつく先が同じ”終わり”)」
ここの概念もですね、それこそ「頭で考えたらそうなるよね」的な暗喩的なしろものでありまして、
実際にそういう事があるとか、それが真実だみたいな話ではありません。
俯瞰で見たらそういう事なんかな〜程度の話です。それは相対論だから。
『歩留り論』が成立している以上、保守と左翼の間に違いは残るのですが、
『歩留り論』に何か制約だとか限界があるのでも無いのです(終わりも定義できちゃう)。
ですが、前回の話のフリーJAZZのように「無秩序が目的化しちゃったらそれはカオスで自由とは言わないパラドックス」があるように、終わりは定義できるだけで『歩留り』がある以上「決して無制限ではない」みたいな(笑
(ダメだこりゃ、自分で書いていて意味わかんネ〜)
↑
いよいよめんどくさい話になってますが、、
殊更たいした話をしてませんから「難しく考えないでください(笑」
■「ネコは何故昼寝をするのか」なんて事を考えても意味が無いって話です。
ロシア風のジョークじゃありませんけれど「昼寝をするからネコなんです」。
(その時「昼寝をするべきだ」と興奮する人はネコでは無い。俺はネコは無いと歩留りを否定する事もできるがその人は「俺が誰であるのか名乗らなければ存在できない」。)
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2014年09月27日
2014年09月19日
『歩留り論』(1)かも
きな臭い言葉になりますが、案外と言うか以外にも私は「本当の自分」という言葉を使います。
ぶっちゃけ簡単に言ってしまえばそれほど露骨に「虚構の自分・幻想の自分が定義されるためその反対語としての意味」となるワケで、昭和の青春ドラマのように「恣意的に社会適応志向する道徳的側面を本当だと言えと恫喝しようってな意味と全く趣旨も意味も違うものです」。
通常あえてそこまで説明しなくとも「そのままの意味」なのであえてやれ何がどうした説明する事はありませんが、
さて、この話になるとむしろ重要な事は『歩留りアイデェンティティー論』となります。
歩留りってのは本来大量生産などの場で不良品率的な意味で使用される言葉ですが「精度的にどこまでやるか?」的な意味でもあります。
話を一度飛ばします。
東京の精神科医師の一部の間で自主的にサークル活動的は精神分析の研修しているって話があります(そんだけ医療界にはフロイド心理学はなんとやらだって話でもありますが)その研修の場で「自己分析は危険だから」という注意事項があるそうです。
(所謂他のメンバーも誰かいるところでやってみよう的な)
この理由は実に簡単で、メンタル問題などがあり自我問題テーマに分析進める事に耐性のある場合と違い「思い切り『共同幻想』適応型の社会適応しちゃっている人格の場合」何を根拠に自己分析するのか際限が無いって部分があるためです。
勿論の事メンタル問題などがる場合は明快に「現状不快なり不満に思っている強迫心理局面」が本人意思で特定されているので自ずとテーマは限らられてきますが、合理的に社会適応しちゃっている自我にとっては包括的に自分の拠り所が大崩壊する事もあり得るので(なんだかんだ言っても『共同幻想』適応は依存型でもあるので)、アイデェンティ的崩壊リスクがあるって事です。
↑
皮肉にもここが「精神分析を理論的に理解する人格に適正とまで言わないが得手不得手がある」事を証明していて、第三者性傾向の強い『単独者』なら理解も容易なんだけれど『共同幻想』適応系人格が心理学を勉強すると自己防衛的歩留りが発生して保守的心理学の分派を作っちゃうという現象に至る訳です。(或いは反動的にオカルト系になる場合もあります。)
などなどですね、
真剣に心理学的分析やればやるほどいいなんて事は”無く”、
ぶっちゃけメンタル問題なりがある場合には「そのポイント以外まで自己分析始めるとめんどくさい話にもなる」って事なのであります。
(哲学的に探究したいって動機形成があれば別ですけれど、)
そもそも第三者性のある『単独者』にしたって歩留り”0”などということは”あり得ない”のであります。「性別も喪失し日本語も話せなくなった」なんてナンセンスに至るからです。
(ここはJAZZの世界がフリーJAZZに突っ込み過ぎて何やってんのかわからないカオス状態になって失敗したとかも同じような話。ロックの世界においてもドラッグやろうとかあられもない方向いっちゃった話とかも同類項でしょう。)
原則論としてはなんと言っても『自意識』が主導権を持ち「好き勝手に選ぶ」という事なのであり、この話は「自由とはなんぞや」ってテーマ考える場合も同じですね。
目的も無くランダムなカオス状態が自由って事ありませんので(笑
「それじゃ無秩序が目的化している」つーパラドックスになっちまうワケです。
そういう意味では「アイデンティティー論」的に「アイデンティファイ的(帰属)アイデンティティー」では”無く”「選択的アイデンティティー論」が担保される状態が歩留りって話です。
でー『自意識』主導の自由意思による選択的なんちゃらって何の事?って話ですが、
典型例が「あばたもえくぼ」ですよ。
選択的なのだから「不快だろうがなんだろうが面白おかしな自分の一部として自慢話にもなる」って解釈や講釈になってないと歩留りとは言えない。
「そこは変わらなくてもいい」と自己選択しているのに後から「グダグダ文句が出る」ってのはその選択に自己責任が担保されていないのだから「選択など行われていない」って事になります。
「だとしたらそれは虚偽ですねと(じゃあ本当となるものに何を選ぶんですか)」
とかなんとかですね、
案外と言うか以外にも私は「本当の自分」という言葉を使いますが、それは「虚構の自分・幻想の自分が定義されるためその反対語としての意味」として使用してまして、何気に世間的意味となる「恣意的に社会適応志向する道徳的側面を本当だと言えと恫喝しようってな意味と全く趣旨も意味も違うものです」、
という事なんです。
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ぶっちゃけ簡単に言ってしまえばそれほど露骨に「虚構の自分・幻想の自分が定義されるためその反対語としての意味」となるワケで、昭和の青春ドラマのように「恣意的に社会適応志向する道徳的側面を本当だと言えと恫喝しようってな意味と全く趣旨も意味も違うものです」。
通常あえてそこまで説明しなくとも「そのままの意味」なのであえてやれ何がどうした説明する事はありませんが、
さて、この話になるとむしろ重要な事は『歩留りアイデェンティティー論』となります。
歩留りってのは本来大量生産などの場で不良品率的な意味で使用される言葉ですが「精度的にどこまでやるか?」的な意味でもあります。
話を一度飛ばします。
東京の精神科医師の一部の間で自主的にサークル活動的は精神分析の研修しているって話があります(そんだけ医療界にはフロイド心理学はなんとやらだって話でもありますが)その研修の場で「自己分析は危険だから」という注意事項があるそうです。
(所謂他のメンバーも誰かいるところでやってみよう的な)
この理由は実に簡単で、メンタル問題などがあり自我問題テーマに分析進める事に耐性のある場合と違い「思い切り『共同幻想』適応型の社会適応しちゃっている人格の場合」何を根拠に自己分析するのか際限が無いって部分があるためです。
勿論の事メンタル問題などがる場合は明快に「現状不快なり不満に思っている強迫心理局面」が本人意思で特定されているので自ずとテーマは限らられてきますが、合理的に社会適応しちゃっている自我にとっては包括的に自分の拠り所が大崩壊する事もあり得るので(なんだかんだ言っても『共同幻想』適応は依存型でもあるので)、アイデェンティ的崩壊リスクがあるって事です。
↑
皮肉にもここが「精神分析を理論的に理解する人格に適正とまで言わないが得手不得手がある」事を証明していて、第三者性傾向の強い『単独者』なら理解も容易なんだけれど『共同幻想』適応系人格が心理学を勉強すると自己防衛的歩留りが発生して保守的心理学の分派を作っちゃうという現象に至る訳です。(或いは反動的にオカルト系になる場合もあります。)
などなどですね、
真剣に心理学的分析やればやるほどいいなんて事は”無く”、
ぶっちゃけメンタル問題なりがある場合には「そのポイント以外まで自己分析始めるとめんどくさい話にもなる」って事なのであります。
(哲学的に探究したいって動機形成があれば別ですけれど、)
そもそも第三者性のある『単独者』にしたって歩留り”0”などということは”あり得ない”のであります。「性別も喪失し日本語も話せなくなった」なんてナンセンスに至るからです。
(ここはJAZZの世界がフリーJAZZに突っ込み過ぎて何やってんのかわからないカオス状態になって失敗したとかも同じような話。ロックの世界においてもドラッグやろうとかあられもない方向いっちゃった話とかも同類項でしょう。)
原則論としてはなんと言っても『自意識』が主導権を持ち「好き勝手に選ぶ」という事なのであり、この話は「自由とはなんぞや」ってテーマ考える場合も同じですね。
目的も無くランダムなカオス状態が自由って事ありませんので(笑
「それじゃ無秩序が目的化している」つーパラドックスになっちまうワケです。
そういう意味では「アイデンティティー論」的に「アイデンティファイ的(帰属)アイデンティティー」では”無く”「選択的アイデンティティー論」が担保される状態が歩留りって話です。
でー『自意識』主導の自由意思による選択的なんちゃらって何の事?って話ですが、
典型例が「あばたもえくぼ」ですよ。
選択的なのだから「不快だろうがなんだろうが面白おかしな自分の一部として自慢話にもなる」って解釈や講釈になってないと歩留りとは言えない。
「そこは変わらなくてもいい」と自己選択しているのに後から「グダグダ文句が出る」ってのはその選択に自己責任が担保されていないのだから「選択など行われていない」って事になります。
「だとしたらそれは虚偽ですねと(じゃあ本当となるものに何を選ぶんですか)」
とかなんとかですね、
案外と言うか以外にも私は「本当の自分」という言葉を使いますが、それは「虚構の自分・幻想の自分が定義されるためその反対語としての意味」として使用してまして、何気に世間的意味となる「恣意的に社会適応志向する道徳的側面を本当だと言えと恫喝しようってな意味と全く趣旨も意味も違うものです」、
という事なんです。
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2014年09月13日
不老不死への第一歩は誰にも観測できない
このブログでは何回も触れている事ですが、イマイチ「どんな妄言を」などと思われている方も多数と思いますので念には念を入れておこうと思います。
■後期先進国の現代社会は『少子高齢化』時代では”ありません”。
時代は間違いなく不老不死を視野に入れた『高寿命社会』へ変遷しているんです。
不老不死というより「死なない世界」を視野に入れようとしていると言った方がリアルかも知れません。
社会心理的に補足するなら、三度の飯より戦争が好きだったあの米国がですね「兵士の死というものに社会が耐えられなくなっている」という現象に直面し、イラク撤退もそうでしたが物理的に長期陸上戦が不可能になったんですよ。
前線の赴任期間も半年が限界となって兵員不足で州兵までローテーション制で動員されただとか、戦争のプロへのニーズが高まり、実質傭兵なんですが何故か警備会社を名乗る自動小銃で完全武装の元特殊部隊出身の”民間警備員”が徴用されたりですね、死というものに対するセンシティブな状況は日本の高寿命化だけで観測されている話ではありません。
かのIPS細胞の中山教授も「自分の臓器を予備に作る世界」を視野に入れている件について明言してます。
なんだか、こんな話をすると「潜在的な重要が社会全体に高まる雰囲気なるものは理解できるが、不死なんて医療倫理の大問題に手を出すマッドサインティストのようなフランケンシュタイン博士が登場するとは思えない」というご意見もあるでしょう。
いえいえ、そんなたいそうな話じゃネーんですよ。
皆さんもTVの通販番組見た事あると思います。「朝から晩までやれ健康、やれアンチエイジング一色です」なんとか年齢などと称して「私は実年齢よりナントカ年齢が若い」なんてーな話は実に好都合なCMとなっていたりしますよね?
↑
■はい、もう不老不死なんです。
仮にこの通販の商品が公正取引委員会も真っ青な「本当の効果があったとしたら?」
「10年前のなんとかが蘇ります」←仮にこの広告が本当だったら?
いえいえ、10年も遡らなくてもいんです。
「1日前の自分の若さを保つ”ナントカ”を毎日飲むと?」
小学生でもわかりますよね(笑
その年齢から誰ひとり歳を取らないので=不老不死です。
テロメアがどうした難しい話はともかくとして、
その薬の開発趣旨が「1年前後のアンチエイジング」だった場合、倫理問題もクソも誰も話題にしないでしょう。そして医療界は金になるとわかってますから「1年でも確実に戻るアンチエイジングの開発に誰一人躊躇しない」でしょう。
そして、実際公取が睨みをきかせる中、そういう広告の商品であふれかえっているのが『現代社会』です。
実って側面で考える時、やってる事も需要も「不老不死以外の何物でも無い」ってところとっくに超えてるんですよ。ここに科学技術のフレークスルーが一個でも加われば速攻時代は不老不死になります。
し か も
人間は誰一人「最初の不死者を観測できません」。
何故って「誰もがいつかは死ぬだろうと思うだけ」だからです(笑
不死者を観測できるのは不死者だけなんですよ。
意味わかります?
人類には不死者いませんから、誰一人「最初の不死者を観測できず、随分長生きの人だなぁ」と思うだけなんですよ。
(ひょっとしたら最初の不死者は吉永小百合さんかも知れないワケでww)
この大問題が全く倫理的ナントカで論じられていない。てか、論じられません。
観測できないのですからね。
時代は完全にそっちの世界に一歩踏み出しちゃっているのは事実なんだと俺は(殊更特別何がどうした的では無く「だろうね」的に)考えてます。
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時代は間違いなく不老不死を視野に入れた『高寿命社会』へ変遷しているんです。
不老不死というより「死なない世界」を視野に入れようとしていると言った方がリアルかも知れません。
社会心理的に補足するなら、三度の飯より戦争が好きだったあの米国がですね「兵士の死というものに社会が耐えられなくなっている」という現象に直面し、イラク撤退もそうでしたが物理的に長期陸上戦が不可能になったんですよ。
前線の赴任期間も半年が限界となって兵員不足で州兵までローテーション制で動員されただとか、戦争のプロへのニーズが高まり、実質傭兵なんですが何故か警備会社を名乗る自動小銃で完全武装の元特殊部隊出身の”民間警備員”が徴用されたりですね、死というものに対するセンシティブな状況は日本の高寿命化だけで観測されている話ではありません。
かのIPS細胞の中山教授も「自分の臓器を予備に作る世界」を視野に入れている件について明言してます。
なんだか、こんな話をすると「潜在的な重要が社会全体に高まる雰囲気なるものは理解できるが、不死なんて医療倫理の大問題に手を出すマッドサインティストのようなフランケンシュタイン博士が登場するとは思えない」というご意見もあるでしょう。
いえいえ、そんなたいそうな話じゃネーんですよ。
皆さんもTVの通販番組見た事あると思います。「朝から晩までやれ健康、やれアンチエイジング一色です」なんとか年齢などと称して「私は実年齢よりナントカ年齢が若い」なんてーな話は実に好都合なCMとなっていたりしますよね?
↑
■はい、もう不老不死なんです。
仮にこの通販の商品が公正取引委員会も真っ青な「本当の効果があったとしたら?」
「10年前のなんとかが蘇ります」←仮にこの広告が本当だったら?
いえいえ、10年も遡らなくてもいんです。
「1日前の自分の若さを保つ”ナントカ”を毎日飲むと?」
小学生でもわかりますよね(笑
その年齢から誰ひとり歳を取らないので=不老不死です。
テロメアがどうした難しい話はともかくとして、
その薬の開発趣旨が「1年前後のアンチエイジング」だった場合、倫理問題もクソも誰も話題にしないでしょう。そして医療界は金になるとわかってますから「1年でも確実に戻るアンチエイジングの開発に誰一人躊躇しない」でしょう。
そして、実際公取が睨みをきかせる中、そういう広告の商品であふれかえっているのが『現代社会』です。
実って側面で考える時、やってる事も需要も「不老不死以外の何物でも無い」ってところとっくに超えてるんですよ。ここに科学技術のフレークスルーが一個でも加われば速攻時代は不老不死になります。
し か も
人間は誰一人「最初の不死者を観測できません」。
何故って「誰もがいつかは死ぬだろうと思うだけ」だからです(笑
不死者を観測できるのは不死者だけなんですよ。
意味わかります?
人類には不死者いませんから、誰一人「最初の不死者を観測できず、随分長生きの人だなぁ」と思うだけなんですよ。
(ひょっとしたら最初の不死者は吉永小百合さんかも知れないワケでww)
この大問題が全く倫理的ナントカで論じられていない。てか、論じられません。
観測できないのですからね。
時代は完全にそっちの世界に一歩踏み出しちゃっているのは事実なんだと俺は(殊更特別何がどうした的では無く「だろうね」的に)考えてます。
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2014年09月05日
自己責任論の誤解
責任って言葉からして「受け取る側の意味が大幅に違う事も珍しく無い言葉」である。
心理学における説明時に「自己責任を担保した選択を」なんて表現をよく使うのだが、表現のニュアンス的にはギャンブルにおける”賭け”的な意味です。
この自己責任って言葉は『被(こうむる)』『抗(あらがう)』論の説明がとてもわかりやすい事例のひとつになってます。
「責任」って言葉を
『被(こうむる)』で考えると「責任を取らされる」「誰々の責任だと言われた」とかになりますが、
『抗(あらがう)』で考えると「私が責任者にふさわしい」「私が責任を取ります」となり、
クレームなんかの話になれば、
「責任者を出せ」なんて場合=「偉い人を呼んで来い」となるので、責任が発生しているってのはどちらか言えば「利権の存在」を意味しており、自然に考えれば好ましい部類の話なんですよね。
↑
これとよく似ているのが会計における借金です、
『被(こうむる)』だと「借金で首がまわらない」
『抗(あらがう)』だと「資本金を手に入れた」
勿論、住宅ローンじゃないですけれど「多額の借金が可能=信用評価が高い」となるので自然に考えれば好ましい事なんですが(そりゃサブプライム金利で無理な資金調達となればアレですけど)、『被(こうむる)』の状況で考えても「それだけ金策に成功している」って話なワケで(問題は何に使ったのかだとか調達コストの高い借金をしてないかって話で)、『被(こうむる)』なままでも一概に否定的な話しじゃありません。
それだけ『被(こうむる)』というスタンスは「自分は何も関与していない」的な「絶対受益者」の立ち位置となっており、「絶対受益者」なんて一歩間違えば誰でも「絶対被害者史観」になり得るのです。話を自己責任論に戻すと、
「同じ事象なのに、当事者がそれを否定的に見たり大喜びしたり自分の利益と感じたりなど自我スタンスで容易に180度意味合いが変わる」ってところがポイントでありまして、
(話を単純化すると→大波を受けるとなれば大変ですが、波乗りしているサーファーには大歓迎となる。)
どっちが得なの?と問われれば誰でも『抗(あらがう)』側に立つのが有利だと考えるでしょう。
それだけ心理状態が『被(こうむる)』の場合、同じ事象においても否定的な結論を導く事は容易になります=「絶対被害者史観の誘惑」も大きくなるんです。
(脳の原則論ですが、脳は興奮さえあればよいのであり、それが『自意識』に快と分類されようが不快と分類されようがどっちでもいいのですから。)
こうなっちゃうともうね「ひとつのスタイル」なんですよね。
そして『被(こうむる)』の場合には典型的になればなるほど「個性が典型例に埋没化します」。
逆に『抗(あらがう)』の場合典型化は概念としてあり得ない。自由度が高まる事になるので『抗(あらがう)』スタンスが強化される先あるのは個性化となる。
(▲上記項10/21一部編集)
↑
ここの意味わかり難いでしょうか。
『被(こうむる)』系人格構造は”ひとつのスタイル(典型例)”なのだから「パターン化する」のです。
『ステレオタイプ化』=没個性です。
そして没個性ってなんぞやと聞かれると「もうその人本人の特性では無く、それは『抗(あらがう)』『被(こうむる)』系人格特性が支配的になってしまっている状態」となるんです。
(平成初期の”マニュアル人間”などの話も同じで、この時は崩壊が進む『共同幻想』を補完するため『共同幻想』適応系の社会がマスメディアや出版物などに行動様式の雛形を求めた現象です。)
実際メンタル問題で悩んでいる人は激しくここ同意しかねるでしょうけれど、
『被(こうむる)』系人格傾向は「驚くほど人格傾向はその典型例に画一化・類型化する方向になり」(そりゃ強迫心理の元ネタが『共同幻想』の共有自我なのですから)「それはあなたの意見でも感情でも無いんですよ(この状況でこのタイプの傾向(スタイルが)ある場合には誰しも全くその同じ台詞を言うのです)」な局面も多くなっていきます。
(▲上記項10/21一部編集と訂正:重要な部分を真逆にコピペしてましたスイマセン。)
「本人」だとか「本当の自分」なんて言うと青臭い話出たかと勘違いされる方いらっしゃるかもですが、極度の没個性化が進行中である状況の対比で考えれば、そのまんま「そんな事をいう自我はいません。それは『被(こうむる)』人格の代表的な決め台詞です」みたいな水準の話だってご理解いただけるのではなかろうかと思います。
■時にフランス方面などで、無意識領域を過大にロマンチシズムな理解を進めようと傾斜する場合もありますが(勘違いしてビートルズがドラッグとかになってんじゃネーかみたいな)、そっちの水にあるのは確かにカオス的な部分はありつつも(そりゃねDOS窓でやろうってんだから)、無意識領域に対して『自意識』がそれをありがたがるかのように『被(こうむる)』スタンスになる時、先にあるのは類型化と没個性化と「自己の喪失」なのだって事ですよ。
自己責任(現在時刻の選択の著作権)の忌避ってそういう意味ですからね。
(▲10/21一部編集あり、文中説明参照。)
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コメント欄の削除があった件(関係障害について)
http://kagewari.seesaa.net/article/402054291.html
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心理学における説明時に「自己責任を担保した選択を」なんて表現をよく使うのだが、表現のニュアンス的にはギャンブルにおける”賭け”的な意味です。
この自己責任って言葉は『被(こうむる)』『抗(あらがう)』論の説明がとてもわかりやすい事例のひとつになってます。
「責任」って言葉を
『被(こうむる)』で考えると「責任を取らされる」「誰々の責任だと言われた」とかになりますが、
『抗(あらがう)』で考えると「私が責任者にふさわしい」「私が責任を取ります」となり、
クレームなんかの話になれば、
「責任者を出せ」なんて場合=「偉い人を呼んで来い」となるので、責任が発生しているってのはどちらか言えば「利権の存在」を意味しており、自然に考えれば好ましい部類の話なんですよね。
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これとよく似ているのが会計における借金です、
『被(こうむる)』だと「借金で首がまわらない」
『抗(あらがう)』だと「資本金を手に入れた」
勿論、住宅ローンじゃないですけれど「多額の借金が可能=信用評価が高い」となるので自然に考えれば好ましい事なんですが(そりゃサブプライム金利で無理な資金調達となればアレですけど)、『被(こうむる)』の状況で考えても「それだけ金策に成功している」って話なワケで(問題は何に使ったのかだとか調達コストの高い借金をしてないかって話で)、『被(こうむる)』なままでも一概に否定的な話しじゃありません。
それだけ『被(こうむる)』というスタンスは「自分は何も関与していない」的な「絶対受益者」の立ち位置となっており、「絶対受益者」なんて一歩間違えば誰でも「絶対被害者史観」になり得るのです。話を自己責任論に戻すと、
「同じ事象なのに、当事者がそれを否定的に見たり大喜びしたり自分の利益と感じたりなど自我スタンスで容易に180度意味合いが変わる」ってところがポイントでありまして、
(話を単純化すると→大波を受けるとなれば大変ですが、波乗りしているサーファーには大歓迎となる。)
どっちが得なの?と問われれば誰でも『抗(あらがう)』側に立つのが有利だと考えるでしょう。
それだけ心理状態が『被(こうむる)』の場合、同じ事象においても否定的な結論を導く事は容易になります=「絶対被害者史観の誘惑」も大きくなるんです。
(脳の原則論ですが、脳は興奮さえあればよいのであり、それが『自意識』に快と分類されようが不快と分類されようがどっちでもいいのですから。)
こうなっちゃうともうね「ひとつのスタイル」なんですよね。
そして『被(こうむる)』の場合には典型的になればなるほど「個性が典型例に埋没化します」。
逆に『抗(あらがう)』の場合典型化は概念としてあり得ない。自由度が高まる事になるので『抗(あらがう)』スタンスが強化される先あるのは個性化となる。
(▲上記項10/21一部編集)
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ここの意味わかり難いでしょうか。
『被(こうむる)』系人格構造は”ひとつのスタイル(典型例)”なのだから「パターン化する」のです。
『ステレオタイプ化』=没個性です。
そして没個性ってなんぞやと聞かれると「もうその人本人の特性では無く、それは
(平成初期の”マニュアル人間”などの話も同じで、この時は崩壊が進む『共同幻想』を補完するため『共同幻想』適応系の社会がマスメディアや出版物などに行動様式の雛形を求めた現象です。)
実際メンタル問題で悩んでいる人は激しくここ同意しかねるでしょうけれど、
『被(こうむる)』系人格傾向は「驚くほど人格傾向はその典型例に画一化・類型化する方向になり」(そりゃ強迫心理の元ネタが『共同幻想』の共有自我なのですから)「それはあなたの意見でも感情でも無いんですよ(この状況でこのタイプの傾向(スタイルが)ある場合には誰しも全くその同じ台詞を言うのです)」な局面も多くなっていきます。
(▲上記項10/21一部編集と訂正:重要な部分を真逆にコピペしてましたスイマセン。)
「本人」だとか「本当の自分」なんて言うと青臭い話出たかと勘違いされる方いらっしゃるかもですが、極度の没個性化が進行中である状況の対比で考えれば、そのまんま「そんな事をいう自我はいません。それは『被(こうむる)』人格の代表的な決め台詞です」みたいな水準の話だってご理解いただけるのではなかろうかと思います。
■時にフランス方面などで、無意識領域を過大にロマンチシズムな理解を進めようと傾斜する場合もありますが(勘違いしてビートルズがドラッグとかになってんじゃネーかみたいな)、そっちの水にあるのは確かにカオス的な部分はありつつも(そりゃねDOS窓でやろうってんだから)、無意識領域に対して『自意識』がそれをありがたがるかのように『被(こうむる)』スタンスになる時、先にあるのは類型化と没個性化と「自己の喪失」なのだって事ですよ。
自己責任(現在時刻の選択の著作権)の忌避ってそういう意味ですからね。
(▲10/21一部編集あり、文中説明参照。)
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