実用面において『共同幻想』とは「安全保障」の事です。
こう言い切ってほとんど問題ありません。
なんせ原型が捕食動物に対する種の防衛として群れを形成するって本能に始まるのですから。
異常な(異例でも可な)進化を遂げた哺乳類人類ヒト科は草食動物などに顕著に見られる(ちなみに人類ヒト科は雑食なので草食動物では無い)群れによる安全保障を「ロジカルに定義して運用した」のであり、それが『共同幻想』の存在意義です。
戦争か平和かなんて論議の時によく話に出るのが「世界で戦争を最も避けようと努力しているのが軍人」などの話です。卵が先がニワトリかに似た話で、「安全保障という名の軍備」これは国連のPKOじゃありませんけど「平和維持のための軍事組織」ってのが大前提であって、とち狂った権力者の「世界征服の野望」を例外に世界の軍隊のほぼ全ては所属『共同幻想』の防衛のために存在してます。
(防衛のためを錦の御旗にした侵略がどれほど多数あった事かって、論議にしても決してその発端嘘じゃないですから。←不安心理で認知が誇大化すればそんな事余裕で有り得る事ですからね。)
となればですよ?
『共同幻想』崩壊過程においては『戦争』は行為として大変難しくなってくる計算になります。
事実そうなってます。
あの米国ですら大規模な全面戦争遂行は大変難しいことになってます。
(無謀な地域紛争への介入にしても、前線兵士のローテーションに悩み「人材不足が原因で戦線を意地で無い」というのが現在の米国の本音です。)
『単独者論』としても、『単独者』があらゆる『共同幻想』から無限に独立するようなバリバリのアナーキズムのような事にはなりません。それは「フリーJAZZの顛末」のようにナンセンスであり、人間の個性はなにがしかの『歩留り選択』により成立するのであり、極端な話「性別が選べないのはナントカだ」のようにあらゆるアイデンティティーに対して単独化(反抗化)するというもの程度問題です。(加えて自らの容姿にまでそれが及んだ時、果たして人類はその状況で個性を保持できるのかと聞かれれば「そんなオリジナリティーを創造する芸術性を全ての自我が持っているなどという想定はナンセンス」だし、芸術という視点から見れば「その話はルネッサンスである意味結論出てるでしょ」と考える事もできます。)
■いやはやそんな『単独者論』などになってしまえば、人類の基本”属性(皮肉ですよね)”には「哲学的思考や芸術的創造性がなければならない」なんて斜め上の話になり、それは『単独者』が単独者として望むものでは無いでしょう。
話を戦争に戻しますと、
社会的『単独者』試行錯誤の一断面である「米国のリバタリアン(自由主義者)」は、もっぱら反戦保守と知られますから、社会の『単独者』が『共同幻想』的な起点からの戦争を怒り難くしていくことは説得力のある話です。
「安全保障もおろそかになり、リバタリアン運動のように個人が武装する時代がくるのか?」
と聞かれれば、そういう意味にもならないと思います。
この類型というか典型は「インターネットにおけるPCの運用」で見るのがわかりやすいでしょう。
旧来の『共同幻想』はまさに「法人などのイントラネットや汎用大型コンピューター時代」の様子そのままです。接続する端末は「そのまんま末端の端末に過ぎず」自立性や自由度が無いかわりセキュリティーは共有化されるホストに依存する。
しかしPC時代の台頭により、各PCは自身でインストールしたセキュリティーソフトや自身でMSなどのアップデートの可否を選択し導入します。
「別に個人がハッカー的スキルを身に着けて攻撃能力を保持する事にはならない」ってオチですよ。
目的は安全保障なんですから(笑
(事実先進国では民間警備保障サービスなどの利用が述ビル結果となっても、資産家が自宅にミサイル防衛システムをひそかに導入するなんて話にはならない。)
『矛盾』って言葉で言えば、
「盾の需要がうなぎの滝登り」って話スかね。
この状況が成立可能なのは、社会的ダーウィニズムが棲み分け論に否定された経緯に表れてもいるのでしょう。
攻撃スキルや情報を持つ者が、その専門性を元にして「高性能な盾」を作りそれを流通させる事が「需要」として成立するのであれば、合理的均衡論のような法則で「誰かがそれをやる」って話で、
『共同幻想』の機能性が、先進国というの社会資本により代替されていくことにより『単独者化』が推進されるって話と同じです。
(先進国の『単独者化』が仮に爆発的に推進されるのだとしたら、そのトリガーは『ベーシックインカム導入』だろうって話。)
■本来はこの話って「『共同幻想』と『単独者』のプライバシー論」やらないと始まらないので、
これは<次回につづく>としましょうか。
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