これやると社会学だったり文化人類学だったり心理学だけで語る事はできないわけです、言うならばフロイド心理学は「ミクロ経済学」で、岸田秀教授がの『唯幻論』がエポックだったのは(それこそ史的唯物論があーだったように)「『共同幻想』の着眼が社会学だったりマクロ経済学だ」って部分です。
人類を個別個体だけでミクロ的に見ちゃうとモデルは『単独者』みたいな前提になっちゃうのでそれも随分設定厳しいって話になります。
(特に日本人の心理を考える場合)
フロイド時代ってかヨーロッパの精神風土ってのは勿論一神教系の『硬性で厳格な共同幻想』となるので、”あくまでも見掛け上(あるいは便宜的に)”その姿は個人主義人格に”見える”んですよ、
なものだから、フロイド時代のミクロ経済学でも十分偉大過ぎる発見になるのですが、第二次世界大戦の歴史に個人的興味を持っていた岸田教授によってマクロ経済学的視点が持ち込まれたのが『唯幻論』となります。
(海外の研究者でもそっち系どんだけいるのかわかりませんがとにかく岸田理論が日本人にとって画期的だったのは事実。ちなみに映画監督伊丹十三も岸田心理学に大きな影響を受けた一人。)
フロイドミクロ経済学的心理学において仮説される『超自我』ってのは元ネタ的に宗教的戒律バレバレだったり、欧米人が無意識にその口語で神を登場させたりスラング(戒律的に許されない汚い語みたいな)を使ったりこれが「自我の隙間から無意識をチラ見できるポイント』だったりする事を観測説明するのはやりやすいっちゃやりやすいんですが、
ご存じのとおりで「教会権力との間における宗教革命という名の血みどろの闘争」や『フランス革命』という名のマジ内戦を経験してきている欧米にとって(これは単純に宗教ファンダメンタリストと世俗派の戦いというものでは無くガチ権力闘争的なものでしょう)、フロイド時代(19世紀)がそのまんま現代先進国において通用しないだろうって想定は心理学やっていれば誰しも思う事じゃないかと。
(もっぱらそれ以前に各国の国民性的な自我の説明的にも個人に特化するのは無理があった。)
さて、この辺は各国当事者じゃないと、細かいところの情報取得や解釈の点で無理あるので『世界的絶対心理学』なぞを考えるのもちょいと無理だと言えます。
(世界経済を語るには少なくとも市場経済の基本が世界共通でなけれなどうしようもない。)
世界各国だけでなく『共同幻想』には地域差もあるって事です。
勿論言語学的というか(言語自体『共同幻想』と言える部分も多なのだから)
細かい事言えば身近な小集団による末端『共同幻想』へと更に分化し、ミクロ経済学的な『家族社会における共同幻想』モデルになるって流れです。
■昭和の末端『共同幻想』モデルともなる核家族などになってくれば、自ずと心理学も「その世帯単位で微妙に分析なりの方向が違ってくる」と言えます。
そういう意味で言えば、(欧米は今でも伝統宗教の影響力が強いのである程度修練されると思うけど)日本の心理学的土壌においては特に「そっから先個別各論はご自身がジャーナリスト的に追及してください」的な投げっぱなし感というか「後はご自由に」のような関与に留まる恰好がベター。
経営アナリストが手を取り足を取りって外部取締役かってポジションになる発想からしておかしいですし、日本の法人は中小零細含めてその多様性に特徴があるので余計に論議を詰め過ぎるのは得策では無い。(逆に『軍隊アナリスト』や『極道アナリスト』みたいな事になると業種なりの『共同幻想』が鮮明で固定的になってくるので論議をある程度詰めるとかのが有効なのかもしれないけど。)
この辺の日本の『共同幻想』における多様特殊性は「日本の『共同幻想』における曖昧な部分や緩目って構造が最大の特徴であるから」ってところに呼応するもので、
(欧米の唯一絶対神に対して日本は八百万の神ですから)
根本的に「日本の『共同幻想』は最初から世俗主義的である」と定義しても問題無いでしょう。
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